夜中にふと目が覚める。

理由もなく胸がぎゅっと痛む。

誰にも言えないまま、枕が少し濡れてる──

そんな夜が、誰にだってあります。


人は「泣いちゃいけない」と言いながら、

実は泣くことで、ちゃんと生き延びてるんです。


■ 八っつぁん、雨に濡れる

八っつぁん:

「熊さん、なんで人間って泣くんだろうな。」

熊さん:

「そりゃ目から心の掃除してんだよ。」

八っつぁん:

「泣いたって何も変わらねぇじゃねぇか。」

熊さん:

「いや、泣いたあとは“変わらない自分”を許せるんだ。」


■ 涙は、“心の雨”

悲しい時の涙って、不思議ですよね。

理屈じゃなく、勝手に流れてくる。

それは、心の奥の「もう我慢しなくていいよ」というサイン。


田んぼだって、雨が降らなきゃ実りは育たない。

乾ききった心にも、ちゃんと水やりの時間が必要なんです。

■ 「泣いたら負け」なんて、

 誰が決めた?

私たちは、強くいようとしすぎる。

でも、お釈迦さまも、親鸞聖人も、人の悲しみに涙された方。

仏法の世界では、「泣くこと」は弱さじゃない。

慈悲が動き出す瞬間なんです。


親鸞聖人は「悲しきかなや道俗の類(ともがら)」と、

人々の苦しみを見ては、たびたび涙を流されたと伝わります。

泣くというのは、心が生きている証拠なんですね。

■ 熊さんのひとこと

熊さん:

「八っつぁん、涙ってのはな、花の種みたいなもんだ。」

八っつぁん:

「種?」

熊さん:

「地面の中にあるときゃ、暗くて冷たい。けど、雨が降って、それが涙みてぇに沁みてくると、やがて芽が出るんだよ。」


涙のあと、心に小さな芽が出る。

それは「誰かを思いやる芽」だったり、「もう一度やってみよう」という芽だったり。

泣いた分だけ、人はやさしくなれる。

■ 仏法でいう「悲智円融」

仏の智慧は、悲しみと智慧が一つになる。

これを「悲智円融(ひちえんにゅう)」といいます。

つまり、涙の中にこそ智慧があり、

悲しみの底にこそ、ほんとうの光がある。


阿弥陀さまの慈悲とは、

“泣いているあなた”を見放さない光です。

涙で曇った夜にも、

その光は静かに、変わらず届いている。

■ 今夜のひとこと

涙は、心が咲く前の雨。


泣くことを恥じなくていい。

涙のあとには、かならず何かが芽を出す。

それがどんな小さな芽でも、

あなたの命の中で確かに息づいている。


だから、泣きながらでも、

そっとつぶやいてみてください。


なんまんだぶ。


その一声が、

心の中の小さな芽をやさしく包んでくれます。