SNSを開いたら、同級生の結婚報告。
「幸せです♡」の笑顔がまぶしい。
頭では「おめでとう」って思ってるのに、
胸の奥がちょっと痛い。
──そんな夜、ありませんか。
「私、心が狭いのかな…」
いいえ、そうじゃありません。
それは、人間である証拠なんです。
■ 八っつぁん、隣の芝にモヤる
八っつぁん:
「熊さん、聞いてくれよ。
隣の奴が宝くじ当てたんだ。」
熊さん:
「へぇ〜、そりゃめでたいな。」
八っつぁん:
「…めでたいけど、腹が立つんだよ。」
熊さん:
「なんでだい?」
八っつぁん:
「オレも同じ売り場で買ったんだよ!」
熊さん:
「運までお隣とおそろいは無理だな。」
■ 「妬み」は、“自分を守る感情”
仏教では、嫉妬や妬みを
「三毒」の一つ──煩悩と呼びます。
でも、煩悩って悪いものではない。
生きるための“心の警報装置”なんです。
「自分だって認められたい」
「私だって幸せになりたい」
その思いがあるから、
私たちは努力できる。
問題は、その気持ちに気づかないまま、
他人を責めてしまうこと。
■ 比べる心は、“苦”のはじまり
お釈迦さまは言いました。
「他と我とを量るは、
苦のもと。」
比べた瞬間、心は不自由になります。
上を見ればうらやましく、
下を見ればおごってしまう。
人間の心って、ほんと忙しいんです。
でもね──
比べる心の奥には、
「私も幸せになりたい」
という純粋な願いがある。
それに気づけたら、
もう半分、苦しみはほどけています。
■ 熊さんのひとこと
熊さん:
「八っつぁん、隣の芝が青く見えるの
はな、あっちばっか見てるからだ。」
八っつぁん:
「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」
熊さん:
「たまには、自分の庭にも
水まいてみな。」
他人の幸せを眺めるより、
自分の暮らしに小さな光を見つけてやる。
「うまい茶が飲めた」とか、
「風が気持ちいい」とか、
それでいい。
幸せは“比べる”ものじゃなく、
“感じる”ものなんです。
■ 仏法でいう「随喜(ずいき)」
仏さまの教えに、
“随喜”という言葉があります。
これは
「他人の喜びを、自分の喜びにする心」。
難しそうに聞こえるけれど、
たとえば、友だちが笑っているのを見て
「よかったね」と自然に思えた瞬間、
それがもう随喜。
つまり、他人の幸せを借りて、
自分もあたたかくなる生き方です。
■ 親鸞聖人のまなざし
親鸞聖人は、善も悪もすべて如来の
光の中に照らされると教えられました。
つまり、妬んでいる心さえも、
見放されていない。
「そんなあなたの苦しみを、
私は知っている」
と仏は静かに寄り添ってくださる。
だから、
「妬まないようにしよう」ではなく、
「妬んでしまう私を、
抱いてくださっている」と受け止める。
そこから、心がやわらかくなっていきます。
■ 今夜のひとこと
他人の幸せに光るのは、
あなたの“願う力”の証。
モヤモヤしてもいい。
その奥で、あなたも“幸せを願っている”。
だから、泣いても笑っても、
そっとひと声。
なんまんだぶ。
その声が、
あなたのモヤをやさしくほどいて、
静かな光に変えてくれます。