「許したいけど、
どうしても無理です。」
──そんな日、ありますよね。
頭ではわかってるんです。
「怒ってても仕方ない」
「いつか水に流そう」
けれど、心が「いや、ムリ!」と
抵抗する。
あの時の言葉、顔、態度。
何度もリピート再生。
これ、人の業(ごう)です。
根性で止めようとしても、無理です。
■ 八っつぁんと熊さんの喧嘩
八っつぁん:
「熊さんにムカついてるんだ!」
熊さん:
「おう、わしもお前にムカついてる!」
八っつぁん:
「じゃ、仲直りしよう。」
熊さん:
「……まだ無理。」
八っつぁん:
「だよな。」
こうして二人、茶をすすりながら沈黙。
しばらくして熊さんがポツリと。
「なあ、仲直りって
“相手を許す”より
“自分を休ませる”こと
かもしれん。」
この熊さんの言葉、じんわりきます。
■ 「許せない」は“心の防衛反応”
許せないって、
実は「もう傷つきたくない」っていう
防御反応なんです。
相手を責めているようで、
自分を守ってる。
だからまずは、
「そんな私、よく頑張ったな」と
心の背中を撫でてあげてください。
いきなり“聖人モード”にならなくていいんです。
■ 親鸞聖人の眼で見る「許し」
親鸞聖人は「人を許せ」とは
おっしゃいませんでした。
代わりにこうおっしゃったように
思うのです。
「人を責める心も、
また宿業のはたらき」
つまり、
“怒る私”もまた救われている。
「怒ってはいけない」ではなく、
「怒ってしまう私が、
見放されていない。」
その安心が生まれると、
不思議と心の中に
“隙間”ができてきます。
風が通るような余白。
そこから、少しずつ許しが芽を出す。
■ 小さな抜け道の見つけ方
人を許せない時、
無理に「許そう」としなくていい。
代わりに、こうつぶやいてください。
「この怒りの中にも、
仏さまの光がある。」
不思議ですが、
そう思うだけで“怒り”が
ほんの少し柔らかくなります。
光を感じるというより、
「暗闇の中にも光がある」
と思い出すだけでいい。
■ 今夜のひとこと
許すことは、
相手を無罪にすることじゃない。
自分を苦しみの牢屋から
出してあげること。
怒りは自然。恨みも自然。
でも、その中に閉じ込められる
必要はない。
そっと、手のひらを合わせて。
なんまんだぶ。
それが、心の抜け道です。
出口のドアは、
いつも内側にしかついていません。