■ひとりぼっちの夕暮れに…
みなさん、人生でこんな瞬間ありません?
「あ〜…なんか、全部から見放された気がするわ」
家族とケンカ、友人は忙しい、
スマホは静か、猫もそっけない。
そんなとき、心の中で
「人生、詰んだか…?」
ってつぶやく。
でもね、そこからが浄土真宗の真骨頂。
「み〜んなから見放されても、
如来さまだけは横に正座しとる」
これ、心の奥にズシンときます。
■“信心決定”って何が決まるの?
「信心決定」って、なんかゲームで
“強化成功!”みたいな響きですが、
本当はもっとしみじみしてる。
ただの凡夫が、必ず仏に育て上げられる道に入った
これだけ。
いや、これだけだけど、めちゃくちゃデカい。
だって私、
“地獄は一定すみかぞかし”
と言われるような身です。
■懺悔と感謝はワンセット
親鸞聖人はね、
念仏の一声一声に懺悔と感謝がある
って言ったんです。
- 「またやってもうた…ごめんなさい」
- 「それでも捨てへんでくれて、ありがとう」
これが心の呼吸。
怒っても、妬んでも、失敗しても、
最後は必ずこの二つに戻る。
■五劫永劫の“執念”は誰のため?
ここ大事。
弥陀の五劫思惟は、私ひとりに向けられた
世界中の人たちの中で、
「この悪たれをほっとけん」
と目をつけられたのが、私。
いやありがたいけど…
仏さま、センス独特すぎません?
でもそのセンスこそ、救いなんですね。
世間が言う
「素晴らしい人」
じゃなくて、
“どうしようもない私”が
ターゲット
これが真宗の“恐ろしく優しい”ところ。
■信心がつくと何が変わる?
悪はなくならんのです。
怒りも出る、欲も出る。
ただ…
出っぱなしにならない
「ああ、またやらかした」
って、ちゃんと頭が下がる。
信仰って、
“人格改善プログラム”じゃない。
転んだら手を入れてくれる親がいると知る道。
■今日の結論:座り直す場所ができる
だから、
- 人に冷たくされても
- 仕事で失敗しても
- 家族に誤解されても
- 自分が自分にあきれても
一人だけ、
**絶対に見放さない“親”**がいる。
それを感じると、
人生の荒波も、「なんとか渡れるわ」となる
涙の中からでも、立ち上がれる。
■おあとがよろしいようで
最後に一句:
世間はツレなくても
南無阿弥陀仏だけは
ついて来る
ありがたい。
恥ずかしい。
それでも歩く。
今日も一声、南無阿弥陀仏。