■人間ってややこしい
みなさん、人生って曲がりくねってますよね。
「私の人生、真っ直ぐ一本道です!」なんて人、いたら逆に怖い。
でもね、曲がってようがクネクネしようが、
なんとか転がり切って終わればそれでよし、というのが凡夫の歩き方。
で、この旅路の途中で出てくるややこしい話が
「阿弥陀さんは悪人でも救う?
じゃあ悪してええやん!」
という本願ぼこり。
人間の業が深いのか、頭が単純なのか…
いや、欲望って便利な言い訳を探しがちなんです。
■親鸞聖人、ズバッとお手紙
親鸞さん、これについてはっきり手紙に書いてます。
「毒がまだ体に残っとるのに、さらに毒すすめるやつおるかい!」
要約すると…
- 「煩悩があるから好き放題していい」は間違い
- 本願を言い訳に使うなんて、とんでもない
- 人間は心のままにできるほど立派じゃない
という、愛とツッコミのハイブリッドメッセージ。
言い換えると、
「許されてるからやっていい」
ではなく
「許されててもやっちゃう哀れを知る」
これが真宗の“恵まれかた”。
■善も悪も「縁で動く」
昔、酒好きの兄さんがおってね。
兄さん「ワシ、意思弱いから酒やめられへんねん」
医者 「意思とか関係ない、身体が覚えてるんや」
同じく仏法的には、
- 良いことができた→宿善が芽吹いただけ
- 悪いことが起きた→悪業の芽が出ただけ
つまり、
心ひとつで善人にも悪人にもなれると思うなよ
という、なかなか辛辣な真理。
でも、これって希望なんです。
「私は悪い人間だから」じゃなく
「縁で迷うしかなかったんやな」って気づくと、人を責める刃が、少し丸くなる。
■「宿業」を知ると、世界の見え方が変わる
親鸞聖人は
どんな小さな塵ほどのことも、宿業で起きる
と見抜いた。
わたしら凡夫はすぐ言いますよ。
「なんで私だけこんな目に…」
「あいつが悪い、私が正しい」
でも聖人は違った。
「これは我が身の業ぞ」
怒りの矛先を外に向けず
自分の業を静かに観る。
これ、めちゃくちゃ格好いい生き方です。
■まとめ:毒は飲まんに越したことはない
今日の教訓:
- 「救われるから悪していい」
→ それ勘違い。むしろ信じてない証拠 - 善は自分の手柄じゃない
→ 縁をいただいたから出ただけ - 悪が出ても自分を呪うな
→ それも縁。見て、懺悔して、また歩く - 人を責めるより、宿業を観よう
→ これが大人の宗教心
で、結局どうすれば?
毒は飲まないのが良い
でも飲んでしまったら
薬の方にすがりなさい
そう、薬はちゃんとあるのです。
ありがたいことに。
南無阿弥陀仏
今日も恥じながら、
許されながら、
歩いていきましょ。
おあとがよろしいようで🪷