■冒頭:世界は心のスクリーン?
皆さんは、こんな話を聞いたことありますか。
この世界は、全部あなたの心が映してる映画です。
となると…ですよ?
隣の奥さんも、スマホの通知も、今日の
夕飯のカレーも、ぜ〜んぶ心の中の映像。
つまり唯識(ゆいしき)という仏教の学問では、「外にものはない。全部“心の中の現れ”」と考えるんですわ。
なんや、マトリックスみたいでしょ?
■八つの“心の役者”が舞台に立つ
唯識では心を八つに分ける。
番号 | 役割 | 例えると |
①眼識 | 見る | スクリーン |
②耳識 | 聞く | スピーカー |
③鼻識 | 嗅ぐ | アロマ機械 |
④舌識 | 味わう | 味覚センサー |
⑤身識 | 触れる | 触覚センサー |
⑥意識 | 判断する | 編集室 |
⑦末那識 | 好き嫌い執着 | プロデューサー(癖強) |
⑧阿頼耶識 | 全部の種の倉庫 | 巨大ハードディスク |
ざっくり言うとこう。
①〜⑤で取り込む
→⑥で理解する
→⑦で好き嫌いする
→⑧に記録してまた発芽
延々これ。でね、末那識さん、ほんま困った子。「ワシがええと思うんや!」「ワシが嫌いや!」ばっかり。
クセ強い身勝手プロデューサー。
■善い心も悪い心も“湧くだけ”
ここが仏法の鋭いところ。
善い思いが出たら、昔の善い縁が芽を出しただけ。
悪い思いが湧いたら、昔の悪い種がムクっと起きただけ。
“私が”決めてるわけやない。だからね、
「私は善人です!」
とか言い出したら、それもう
“自分劇場に酔い中”ですわ。
逆に、
「どうして私はこんな悪い心ばかり…」
と落ち込んでも、それもまた“役のせい”。
自分のせいでも、言い訳でもない。
ただ“因縁”が動いとるだけ。
■親鸞聖人の冷静すぎる人間観
親鸞聖人はこれを
「宿業のまま生きるのが凡夫や」
とハッキリ言い切った。何百回、何千回、
仏さまの前で善い心起こしてきたのに——
自力では迷いを破れず
ここまで来た。
「自力かなわで流転せり」
まるで…
「今度こそ人生変える!」
→三日坊主
を何千回も繰り返してきたようなもん。
(あ、ダイエットや禁煙の話ちゃいますよ?笑)
■じゃあどうするのか
「全部心の映画なら、私どうしたらええねん」
そこで浄土の教え。
“心の主演俳優を自分にせんでええ”
つまり、
わしの心のクセのままでもええ。
その上で照らし抱いてくださる仏がいる。
これが南無阿弥陀仏。
自分の心の動きに振り回される人生から、
照らされながら生きる人生へ。
■オチ
人はね、
「わたしがコントロールしてる」
と思ったら苦しみが始まる。ほんまは、
コントロールしてると思ってる
“思い”すら
心の八役者の演技
その舞台を丸ごと照らす光が——
南無阿弥陀仏。
■おあとがよろしいようで
今日も心の舞台でいろいろ起きる。
善い役も悪い役も出てくる。そのたび、
「お、因縁が出番きたな」
と一礼し、
南無阿弥陀仏
(どんな役でも見捨てへん
親がいる)
と思って歩いていく。
また一席、どうぞお付き合いを。合掌🕊️