■冒頭:ありがちな“本願ボコり”
「阿弥陀さんが全部助けてくれる?
じゃあ好き放題してもOKやな!」
……と、こういう事を言う人がおる。
で、横から誰かが
「ほら見たことか!あれが本願ボコりや!
そんなやつは往生できん!」
と、鼻息荒く説教。
だがね——
どっちもまだ“本願の味”を舐めたことがない。
ほんまに本願に遇ったらね、
悪を正当化できる心は残らんのですよ。
本願を言い訳にするうちは、
本願まだ胸に入っとらんのです。
■善も悪も“ワシの計算”じゃ動かん
親鸞聖人はこう仰った。
「善心が起これば
宿善がはたらくゆえ。
悪心が動けば
悪業の勢いによるゆえ。」
つまり、
- 「俺は善人だから善いことするんや!」
…ではなく、善心が起こった“だけ”。 - 「私は悪人やからしゃーない!」
…ではなく、悪心が湧いただけ。
“私が善悪を操っとる”と思ってる時点でアウト。
ちょっと笑い話にすると——
「今日は良いことしました。
ええ人です。」
「今日は腹立ちました。
悪い人です。」
そんな単純な話なら、世の中もっと平和や。
■三恒河沙の仏に何度稽古つけられてきたか
親鸞聖人いわく、
「ワシら、昔から何万回も善い心、起こしてきとった。」
三恒河沙の諸仏(無数のお釈迦さんたち)が現れるたびに、
「善を積め、悪を離れよ」と言われ続けて、
「よし、今度こそ迷いを越すぞ!」
「がんばるぞ仏になるぞ!」
……で、玉砕。
自力かなわで流転せり
いくら決意しても、
結局また迷いの道へ逆戻り。
まるで、
新年のジム通い3日で終了、みたいなもんです。
■阿頼耶識に溜まり続けた“努力の屑”
それでもね、
その努力、無駄にはなってない。
よく貯金アプリで
「端数貯金」自動で溜まるやつありますやろ?
それの魂バージョンやと思ってください。
善い願いも
迷いの涙も
越えられなかった悔しさも
ぜーんぶ
阿頼耶識(第八識)に溜め込まれてる。
言うたら
“心のタンスの奥にしまわれた、小さな善根の袖口”。
その埃まみれの袖を、
阿弥陀さんがそっと引っ張ってくださる。
「その善、無駄にしてへんで」
■本願の“効き目”とは
本願に遇うというのは、
「これで自由や!」と跳ね回ることやない。
「ああ、ワシは善も悪も自分でコントロールできん身やったんや…」
と気づいたその瞬間——
胸の底がふっとほどけて
南無阿弥陀仏が出てくる。
その時、人は悪に開き直らず、善に慢じない。
落語風に言うと、
「ワシはどうしようもない。
でも見放されてへん。」
この安心感こそが念仏。
■しめの一言
本願は“強がり”を脱がせ、
“己れの鼻”をひねり折り、
そのあとに肩を抱いてくれる。
悪に酔ってる暇はなく、
善に酔う余裕もなく、
ただただ照らされて歩く。
今日も
「よき心も、悪き心も、わたしの手柄やない」
その上で、
「南無阿弥陀仏、ようこそ」