「往生」と聞くと、多くの人は

「極楽へ行く」と思う。

けれど『大無量寿経』には

「極楽」という言葉は一度も出てこない。

そこに描かれているのは――「真実報土」「安養浄土」「無量光明土」。

つまり、「遊び場」ではなく、

真実に報いられ、安らかで、

光りに満ちた世界なのだ。


親鸞聖人が「極楽」という言葉を

好まれなかったのも、そのせいだろう。

極楽と聞くと「楽して遊ぶ世界」を

連想してしまう。

けれど、浄土とは仏の大悲が

完成した世界。

そこで仏と成るとは、

「すべてのいのちを救う大悲を起こす」

ことなのだ。

お釈迦さまの出世本懐とは

仏教には無数のお経がある。

それぞれに「この教えこそ肝要」と

説かれている。

だから「どのお経が真実か」を争えば、

たちまち宗論の泥沼になる。


そんな中で、親鸞聖人は

一筋に言い切られた。


如来、世に興出したまうゆえは、

ただ弥陀本願海を説かんとなり。


お釈迦さまがこの世に現れた目的――

それは阿弥陀仏の本願を説くため。

この一句に仏教の核心がある。

根拠は明確だ。

すべての宗派の教えは、もとをただせばお釈迦さまの説法に依る。

その中で、親鸞聖人は浄土三部経を

所依経典とし、特に

『大無量寿経』こそ真実の教えと定めた。


上巻には「弥陀成仏の因果」。

下巻には「衆生往生の因果」。

つまり、なぜ阿弥陀仏が成仏されたか、

そしてなぜ私たちは往生するのかが

筋道立てて説かれている。

浄土へは

「遊び」に行くのではない

親鸞聖人は和讃にこう詠まれる。


願土にいたればすみやかに 

無上涅槃を証してぞ

すなわち大悲をおこすなり 

これを回向となづけたり


往生とは「悟りの安住」ではなく、

再び迷いの世界へ還るはたらき(回向)。

いのちを自分のために使うのではなく、

他を生かすために使う。

これが往生の意味であり、

真実報土のいのちである。

「自己中心」を破る光

私たちは「親が大事」「子が大事」と

言いながらも、心の奥底では「私の親」

「私の子」だから大事なのだ。

それを仏教では「自己延長欲」という。

人はみな、「私が正しい」

「私は悪くない」と思い込む。

それが「無明」――真実を見失った闇だ。


しかし、仏法を聞くうちに少しずつその闇が破られる。

他人が悪いと思っていた出来事が、

実は我が身の業(カルマ)の現れ

だったと気づく。

それが**「業観」**であり、

浄土真宗の根幹にある目覚めの道。


嫌なことと離れられないのは、

私の過去の種まきが

お粗末だったからだ。


そう気づいた時、

人は他を責める心から離れ、

そのままの自己を見つめることができる。

これが「二種深信」の第一――

「我が身は罪悪生死の凡夫である」

と決定して深く信ずるということ。

結び ― 真実報土を願う

往生とは、逃げ場でも、ご褒美でもない。

自己中心を破り、

いのちを大悲へ転ずる道。

阿弥陀仏の光は、

その闇のただ中に差し込む。


如来如実の言を信ずべし。


そのままの私に、

如来の言葉は届いている。

いま聞く耳をもって、

いま南無阿弥陀仏を称える。

そこに、真実報土への道が

すでに開けているのだ。