浄土真宗は、親鸞聖人によって

「願成就に立脚する宗旨」として開かれた。

立脚とは、そこに拠って立つこと。

つまり、真宗は阿弥陀如来の本願が

すでに成就しているという事実のうえに立つ

宗旨なのだ。


本願は、ただの理想や願いごとではない。

「願い」は必ず「行」となって働かねば

意味がない。

法蔵菩薩の願いは、

五劫の思惟・兆載永劫の修行を経て、いま

**南無阿弥陀仏という力ある“行”**

としてこの人間界に届いている。

ここに「願成就に立つ」とは何かの核心がある。


親鸞聖人は『和讃』にこう詠まれた。


四十八願成就して 

正覚の阿弥陀となりたもう

頼みをかけしひとはみな

往生かならずさだまりぬ


つまり、如来の願いはすでに成就している。

それが阿弥陀仏という現成の仏であり、

名号となって

わたしたちに届いているということだ。


阿弥陀如来は第十一から十八にいたる「五願開示」

によって、凡夫を仏に育てる道を仕上げられた。

しかし、その仕上がりは

“仏の側”での完成であって、

“われら凡夫の側”にはまだ心の転換が必要だった。

それを促すのが第十七・第十八願である。

つまり、凡夫の「意識の転成」、

迷いの方向がくるりと如来の側へ向き直ること。

これを「信心」と言う。


蓮如上人はこの転換をわかりやすく説かれた。


それ、五劫思惟の本願というも、

兆載永劫の修行というも、

ただ我等一切衆生を

あながちにたすけ給わんがための方便に…

南無阿弥陀仏という本願をたてましまして…


この「方便」という言葉は、

「嘘も方便」の方便ではない。

原義は近づくこと(upāya)。

つまり、仏が凡夫に近づいてきてくださるという

はたらきそのものだ。

南無阿弥陀仏は、

まさにその仏の接近の声なのである。


阿弥陀如来は、遠い彼方にいる

理想の存在ではない。

「弥陀の名号となえつつ」

と親鸞聖人が詠まれたように、名号が

わたしの口と耳について離れないという事実。

この現実こそが、

「願はすでに成就している」という証拠である。


南無阿弥陀仏を称えることは、

信心のあるなしの問題ではない。

称える声そのものに、如来の「来たもう」事実が響いている。

信心があろうがなかろうが、

その声が今、私を包んでいる。


願成就とは、過去の出来事ではなく、

現在進行の救いである。

兆載永劫の修行の結果が、

いま私の身口意に届いている。

南無阿弥陀仏を称え聞くとき、

そこに本願の完成が確かめられる。


信心があろうとなかろうとな、

南無阿弥陀仏がついてまわっておってくださる。

これ以外に、

如来の御苦労を証明するものはないのじゃ。


蓮如上人の声が、五百年の時を超えて響く。

願成就の証拠は、

ここに生きる私たちの唇と耳のあいだにある。

その声を聞き、その名を称える。

そこに、南無阿弥陀仏 ― 

成就のいのちが息づいている。