浄土真宗で「信心」「安心」をどう言い表すか。
蓮如上人は、
ずばり「たのむ」で押し切られました。
御文には
「一心にふかく
弥陀に帰するこころのうたがいなき」
を真実信心とし、
「一向にたのむ衆生」を光明の中に摂め取る、
と繰り返し示されます。
ところがこの「たのむ」を、
親鸞聖人の“他力回向の信”と齟齬するのでは?
と疑う声が、昔から少なからずあった。
背景には当時の教界地図があります。
広く勢力を持っていたのは
浄土宗鎮西派と西山派。
鎮西は「心存助給口称南無」──
命懸けで心に“助けたまえ”と念じ、口に称えよ。
西山は「十劫安心」──
阿弥陀は十劫の昔にすでに成仏、
ゆえに我らも本来成仏済みだと受ける傾向。
こうした“主流の語り口”が、
人々の耳目を占めていました。
蓮如上人はここで鋭く見抜かれた。
「語」を取り替えるのではなく、
「中身」を入れ替える。
すなわち“勝ち馬に乗る”。
庶民に染みついた「たのむ」を捨てず、
その語を他力の芯で満たし直す。
だからこそ御文で堂々と
「たのめ」と言い切れるのです。
ここに教化の胆力がある。
では「たのむ」とは何か。
語源は「田の実(稲)」とされます。
実りがあれば皆が当て力を得て安心する。
その線で言えば、南無阿弥陀仏は
「生死の一大事」に耐える唯一の当て力。
こちらから“ねだる”のではなく、
「本当に当てになるものに気づき、身を預ける」
のが真の「たのむ」です。
自力の懇願ではなく、他力への帰入。
「こころうる」—
認め・承知・随順
蓮如上人が重ねて用いるもう一語が
「こころうる」。
信心獲得章には
「第十八の願をこころうるなり/
この願をこころうるというは、
南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」
と三たび出る。
これは単なる理解ではありません。
- 認める(道理の承認)
「浄土への道は御名の一本道」と、理において否定し得ないと頷く。 - 承知する(情の歓喜)
「ようこそ言ってくださった」と嬉しさをもって受ける。 - 随順する(実践の決定)
「仰せのままにおまかせします」と腹を決める。
この三位一体が「こころうる」。
ここでしばしば出る疑問が
「決めるのは自力では?」。
しかし御文は続けます。
「しかるに、この光明の縁にもよおされて…
弥陀如来の御かたより
さずけましましたる信心」。
決めたのは我のようで、実は如来の手回し。
だから名づけて他力回向の信。
相応—零と十がぴたりと合う
親鸞聖人が好んだ語が「相応」。
曇鸞の言う「函蓋相称」です。
寸法は蓋(凡夫)でなく、函(仏心)が決める。
式にすれば「0+10=10」。
凡夫は出すものなし(零)。
阿弥陀は満数(十)。
この絶対の調和が本願相応であり、
その姿が南無阿弥陀仏。
阿弥陀の四字は「たすける心」、
南無の二字は「したがい帰する心」。
だから「たのむ」は、
零として仏の十に合うことばなのです。
結びに。
『大経』の「往き易くして人なし」を、
蓮如上人は「信心をとる人、まれ」と受けます。
自我を先に立てるほど、
易き道を自ら難しくする。――
ゆえに今日も御名を聞く。
「有難うございました。おまかせします。」
そう認め・承知・随順していくたび、
私の「たのむ」はねだりではなく、
他力の光に相応する心へと育つ。
ここに、御文が現代に息づく理由があります。
南無阿弥陀仏。