仏教は、
人間の苦しみ悩みを土台として開かれた。
もし苦しみがなければ、仏も、信も、要らない。
だからこそお釈迦さまは見抜かれたのだ――
「苦しみの根っこは、
他でもない己の煩悩にある」と。
煩悩とは、我々の心を取り巻く三毒――
貪・瞋・痴。
「これを削り取れば、本来の清らかな心が輝く」
と考えるのが聖道門。
だが、いくら磨いてもサビが落ちぬ現実を前に、
「あるがままの煩悩を抱えて生きる道」
が見出された。
それが浄土門であり、親鸞の道である。
源信僧都は「妄念の外に別の心なし」と言った。
人間は、過去を悔い、未来を案じ、頭の中で
「こうなるはず」「きっと大丈夫」
と自分をだます。
それが妄念妄想だ。
私たちは、過去と未来に振り回され、
いまを見失っている。
親鸞聖人は、そんな人間をまるごと引き受けた。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」と。
腹が立つなら立てばよい。
欲が出るなら出てもよい。
抑えても消えぬのが人間の本音。
だが、そのままの姿を包みこむ
大きな慈悲がある。
それが「南無阿弥陀仏」である。
「煩悩があるからダメ」ではない。
むしろ煩悩があるからこそ、
阿弥陀の本願が骨身にしみる。
欲も怒りも愚痴も、
如来の呼び声に気づく入口となる。
煩悩が出るたび、
「こんな私を見捨てずにいてくださるのだな」
と頭が下がる。
だから煩悩は、悟りの種である。
氷が溶けて水になるように、
煩悩が溶けて智慧になる。
煩悩が多いほど、喜びも深い。
それを「煩悩即菩提」という。
煩悩を敵に回すのではなく、
煩悩を通して如来の慈悲を聞いていく。
怒りや欲が出たら、
「ああ、また呼ばれている」と受け取る。
するとその煩悩が、日暮れの光になる。
親鸞聖人の信心とは、
煩悩をなくす信心ではない。
煩悩のただなかで、
なお如来の声にうなずく信心だ。
煩悩を憎まず、煩悩を通して阿弥陀を喜ぶ。
それが「不断煩悩得涅槃」――
煩悩のままで涅槃に至るという、逆説の救い。
つまり、煩悩とは、
如来が私を照らすためのスクリーン。
その影の中でしか、光は見えない。
今日も腹が立ったなら、
「ああ、南無阿弥陀仏」とつぶやこう。
愚痴をこぼしたら、
「こんな私にまで」と笑ってみよう。
それが、凡夫のまま仏に抱かれて生きる道。
煩悩が咲かせる花を、今日も一輪、胸に。