御本尊とは「本当に尊いもの」。
親鸞聖人はそれを如来さまと示された。
真宗は
「向こうに阿弥陀が在って私を救う」
の証明から始めない。
私が気づかぬ以前から、すでに私のいのちを抱え
捨てないではたらいている現実――
そのはたらきを「阿弥陀」と名づける。
先に摂取不捨という働きがあり、名が後。
木像・絵像は「拝めば叶う像」ではなく、
色も形もない慈悲(名号)を指し示す
道しるべである。
仏教は「仏がいるか」ではなく
「今ここに私が在る」事実から始まる。
一人で生きられない私が生きている不思議の
背後に、私を支える大いなるいのちがある。
だが私たちは無明ゆえ見えない。
だから蓮如上人は
「ただ聴聞に極まる」と勧められた。
硬い石も水が穿つように、
聴き抜けば法の水が沁みとおる。
阿弥陀はまず名(南無阿弥陀仏)として
来てくださり、さらに姿(御本尊)となって
近づいてくださる。
善導大師は
「南無=帰命・回向」「阿弥陀仏=その行」
と示し、親鸞聖人は
「南無」を“帰って来い”の勅命と味わわれた。
小さな我の殻から出よ、広いいのちへ帰れ――
しかもその呼び声は遠くからではない。
来至、
すなわち呼ぶお方みずからこちらへ来て、
私の口を使い
「南無阿弥陀仏」と喚んでくださる。
歩けぬ子に「おいで」と言いながら
親が近づき抱き上げ、
その歩みを子の歩みとして数える――
これが回向である。
家庭でも「自分ひとりが辛抱している」と
互いに思い違いをしがちだ。
御本尊は静かに告げる。
「あなたが苦しいとき、隣も苦しい。
だが私だけはあなたをわかっている。」
小さな囚われから広い世界へ
目を覚まさせるサインが御本尊である。
御本尊を拝むとは、
像に願掛けすることではない。
像を通し名号のこころ――
摂取不捨の働きを聞き開き、
呼び声にうなずいて称えることだ。
声に出して自分の耳に聞かせる南無阿弥陀仏。
その「南無」は“至る”の意。
どこへか――自在の世界、本願酬報の土へ。
各々が各々のいのちを100%生き切る世界へ
至らせたい、との願いが
今すでに私のところへ来至して喚び続けている。
世は大事なもので満ちる。
だが何を最も尊ぶかで一日が定まる。
呼び声となり姿となり、
いつでも飛んで来てくださるお慈悲を
心の真ん中に。
今日も一声、南無阿弥陀仏――
そこから私の一歩が正面へ向き直る。