「阿弥陀さまって、どんな仏さまですか?」

この問いに、即答できる人は意外と少ない。

けれど、ここを聞き開くと――

お念仏の世界が一気にひらけてくる。

☸️仏とは「目覚めた人

「仏」とは、インドの言葉で“ブッダ”――

「目覚めた人」という意味。

何に目覚めたのか。それは、

**「命は私ひとりで成り立っているのではない」**

という事実だ。


私が今日を生きられるのは、

家族や友人だけではない。

見知らぬ人が掘った石油のおかげで車が走り、

遠い国の誰かが縫った服をまとい、

木々や魚や虫や草――

無数の命が私を生かしてくれている。


つまり「私は、他の命と共に生きている」。

この理法を縁起(えんぎ)という。

仏とは、この縁起の理(ことわり)に

本当に目覚めた人なのだ。

💫阿弥陀とは

「無量の光・無量の命」

『阿弥陀経』には、こうある。


かの仏の光明、無量にして、

十方の国を照らすに障碍するところなし。

また、その寿命および人民も、

無量無辺阿僧祇劫なり。


お釈迦さまが説かれた「阿弥陀」とは、

**無量の光(限りないはたらき)**と

無量の寿(限りないいのち)。


私が何も知らぬうちから、

この「無量のいのち」は私を支え、育て、

照らしてくれている。

それが阿弥陀如来。


「阿」は“打ち消し”の言葉。

「弥陀」は“量る”という意味。

だから阿弥陀とは、

「量れない光」「量れない命」。

つまり、私の計らいを超えて、

はたらいてくださる存在だ。

🪷私を目覚めさせるはたらき

親鸞聖人はこう言われる。


仏性すなわち如来なり。

この如来、微塵世界にみちみちたまえり。


仏とは、遠くにおられる誰かではない。

この世界そのものに満ちている、

目覚めのはたらき。

阿弥陀さまとは、私の「我」を破り、

本当のいのちに気づかせようと

働きかけてくださる力なのだ。

🙏木像・絵像が語る声

「仏像はしゃべらない」

と思われるかもしれない。

けれど、あのお姿は沈黙の説法をしている。

「気づいてくれよ」

――そう呼びかけるように、穏やかに、

ただ見つめておられる。

その姿が何を語るのかを聴くのが、聴聞。

だから浄土真宗で手を合わせるのは、

お願いごとではない。

「南無阿弥陀仏」と

名となって届いている慈悲の声を聴くこと。

🌄「我」がほどけていく

私たちはいつの間にか、

「俺が」「私が」と小さな世界に閉じこもり、

気に入らぬ人を敵にして生きている。

そんな私を見捨てずに、阿弥陀さまは

「本当の命のあり方に目覚めよ」

と呼び続けてくださる。

その声が――南無阿弥陀仏。

呼ばれていることに気づくと、

我の鎧が少しゆるみ、

「生かされていたのだ」と涙が出る。

✨阿弥陀とは、いのちの根源

阿弥陀さまとは、私が思うよりも深く、

私を包み込んでくださるいのちの根源。

向こうにある“神”ではなく、

今ここに、私を支え、生かすはたらきそのもの。

木像・絵像の前で、静かに合掌するとき――

如来の沈黙の声が、心の奥でこう響く。

「お前を、もうひとりにはしない。

このいのちを、共に生きていこう。」

その声を聴いたとき、

私の称える南無阿弥陀仏が、

如来の呼び声として私に返ってくる。

ここにこそ、

阿弥陀の救い=目覚めの成就がある。


南無阿弥陀仏。この一声は、

宇宙の底から届く“無量のいのち”の息吹。

そして今、私の胸で、そのいのちが呼吸している。