「念仏を称えると、
どういう生活になるのですか?」
そう聞かれたら、私はこう答える。
「これから仏になっていく日暮です」と。
親鸞聖人は、
お念仏をいただく人がこの世で得る
「現生十種の益」の最後に、こう示された。
第九・常行大悲の益。
常に大悲を行ずる日暮を賜る――と。
でも正直に言えば、
私たちは「常行大悲」どころか「常行自我」。
自分の思いを通すことに明け暮れ、
腹を立て、比べ、焦る。
そんな凡夫が、
なぜ「常に大悲を行ずる」と言えるのか。
聖人はこう詠まれた。
弥陀の名号となえつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり
つまり「常に」とは四六時中ではなく、
“思い出すたびに”。
ふとした瞬間、
「ああ、如来のお慈悲の中に生かされていた」
と思い出す。
その時すでに、大悲を行じているのだという。
車の運転中は前を見ればいい。
けれど、誰かに優しくされたとき、
悲しみに出会ったとき、
ふと「南無阿弥陀仏」と手が合う。
その一瞬がもう「常行大悲」。
忙しさの合間に、心が如来を思い出す。
それでいいのだ。
──考えてみれば、私も昔は宗教が嫌いだった。
どこか胡散臭く、面倒なものと思っていた。
そんな私が、気づけば仏法を語り、
お念仏を称えている。
「いつからこうなったのか」と問われても、
覚えがない。
ただ、爺ちゃん婆ちゃんが
南無阿弥陀仏を喜んでいた。
あの声と笑顔が、私の中で今も生きている。
つまり、大悲が私を通って育っていたのだ。
だから私はもう言えない。
「私は大悲を行じております」なんて、
とても言えない。
けれど気づいたら、如来の手の中で、
誰かの心に届く言葉を書いていた。
それが「常行大悲の益」という世界なのだろう。
そして、この御利益は
私たちの老いの日暮にも光を当てる。
孫に「爺ちゃん、将来何になりたいの?」と
聞かれたら、
**「爺ちゃんは、
これから仏さまになっていくんや」**
と答えたい。
仕事は終わっても、命の旅は終わらない。
死をも超えて、仏に成る人生を歩む。
それが、お念仏に出遇った者の生き方。
だからこそ、後の者を心配するより、まず自分が前を向く。
自分が如来の方へ歩む背中を見せれば、
必ず誰かがついてくる。
「爺ちゃんはな、
これから仏さまに成る大仕事をしてるんや。」
そう言って笑える老人でありたい。
──念仏とは、終わりではなく始まり。
「常行大悲の益」とは、
死をも越えて歩き続ける
“いのち”の道を賜ること。
南無阿弥陀仏。
この一声が、
あなたの今日をまた前へと照らしている。