「念仏を称えると、どう変わるのか」。

親鸞聖人は、

心に歓喜の多い日暮がひらけると仰います。

歓は身、喜は心。

からだとこころの両方が、

じんわり温まる日暮です。


けれど現実は四苦八苦のただ中。

若さは去り、健康も揺れ、やがて命も尽きる。

人間関係は愛別離苦と怨憎会苦、

求めても満ちず(求不得苦)、

よく気づくがゆえに苦しむ(五蘊盛苦)。

だから私たちの口からは、

不安と不足が先に出るのです。


では、歓喜はどこから来るのか。

妙好人・源左さんは言いました。

「わしは辛抱するんじゃなしに、

皆に辛抱してもろて日暮しとります」。

自分が見えたとき、世界の表情が変わる。

足らぬ足らぬと探す心から、

「こんな私が、ようここまで」と手が合う心へ。

ここに、しみじみのよろこびが芽ばえます。


それでも最後に残るのが「死」の不安。

特に二つ――

ひとりになる不安と、後のことの心配。

私は祖父の臨終で、祖母が合掌して

爺ちゃん、参らしてもろてよかったねえ」

と告げるのを聞きました。

泣き崩れるのではなく、

「還る」いのちとして受けとめる響き。

そこに念仏の底力を見ました。


念仏はこう囁きます。

「絶対にお前をひとりにしない」

「後のことは、みな私が引き受ける」

この喚び声に遇うとき、

不安が消え去るのではなく、

不安を抱えたまま歩ける。

そして歩きながら、じわりと歓喜が満ちてくる。

飛び上がる歓喜ではなく、

しみじみと滲み出る歓喜です。


今日も四苦八苦はあるでしょう。

けれど、声にあらわして一声――

南無阿弥陀仏。

からだが少しゆるみ、心が少しひらく。

そこに「心多歓喜の益」がそっと灯ります。

「まだ足りない」から、

「ようこそ、ここまで」へ。

この反転こそ、念仏者の一日。