人は誰しも、何かを「握って」生きている。
仕事の誇り、家族への想い、信念、そして不安。
けれども、どんなに強く握っても、
指のすき間から、少しずつこぼれ落ちていく。
あるご門徒さんが、こんなことを言った。
「住職、年を取ると
“諦めること”が増えてきますね。」
たしかにそうだ。
若いころは「何かを得る」ために生き、
年を重ねると「何かを手放す」ことを学ぶ。
だが、仏法ではそれを“諦め”とは言わない。
「明らかに見る」と書いて、
“諦観(ていかん)”という。
手放すことは、あきらめではなく、
本当に“見る”ことのはじまりなのだ。
親鸞聖人が「南無」と言われたのは、
自分の力を手放した人の声である。
「帰命」とは、命を帰すこと。
つまり、
「我が命を仏にゆだねる」ということ。
ゆだねるとは、力を抜くことだ。
自分の考えやこだわりをいったん置き、
「どうぞ、この私をおまかせします」
と言えること。
その瞬間、心は静かになる。
何かを“得た”わけではなく、
“手放した”ことによって生まれる静けさである。
法事のあと、ふと庭に目をやると、
散りはじめた彼岸花が一輪、風に揺れていた。
咲くことを競わず、散ることを恐れず、
ただその時をまっすぐに生ききっている。
人間は、花のようにはいかない。
思い通りにならないことに腹を立て、
手に入らないものを嘆き、
過ぎ去ったことにしがみつく。
けれども――
そんな心をそのまま見つめてくださる方がいる。
それが阿弥陀如来。
「そのままでいい。
そのまま、私に帰っておいで。」
その喚び声が、南無阿弥陀仏。
手放すというのは、何も失うことではない。
むしろ、
「すべては与えられていた」と気づくこと。
その気づきが「安心(あんじん)」である。
「手を離したら、何も残らない」
と思っていたけれど、
離したときに残るものこそ、
本当に確かなものだった――。
南無阿弥陀仏と称えるとき、
その声の中に、静かな光が差してくる。
握っていた不安も、こだわりも、
やがて息をひそめ、心がすっと澄んでいく。
それは、誰かに説得されたからでも、
努力して得た境地でもない。
ただ、仏の慈悲に
“抱かれた”ときに生まれる静けさ。
朝の鐘の音が響くとき、
私はふと思う。
「この音に、何かを足す必要はない。
そのままで、すでに満ちている。」
南無阿弥陀仏。
手放した先にある静けさが、
今日も、いのちを照らしている。