親鸞聖人は、『教行信証』の中でこう仰いました。
「南無」の言は帰命なり。
「帰」の言は至なり、また帰説なり。
すなわち“よりたのむ”“よりかかる”なり。
この「帰る」という言葉は、
単なる“移動”ではありません。
阿弥陀さまが私に向かって
「帰って来い」――つまり
「私を力にしなさい」
「私によりかかりなさい」
と呼びかけてくださる声なのです。
けれど、私たちはどうでしょう。
「これがあれば安心だ」と思っていたものが、
気づけば手のひらからこぼれ落ちていく。
健康、地位、名誉、お金、そして人の心――
どれも大切だけれど、
永遠にはとどまってくれません。
雲を目印に木の実を埋めた兎の話のように、
動いていくものを頼りにしても、
やがて雲は形を変え、風に流されていく。
そのとき、私たちは初めて気づきます。
「ああ、私は“無常なるもの”を
拠り所にしていたのだ」と。
あるご門徒の話です。
幼い孫を病気で亡くしたお爺さんがいました。
お金で助かるならと、
トランクいっぱいに現金を詰めて
病院へ持っていった。
けれど、孫の命は戻らなかった。
「金があれば何でも叶うと思っていたが、
金ではどうにもならんことがありました。」
その方は後にこう語りました。
「けど、まだ目が見えるうちに、
本当に確かなものに出遇えてよかった。」
その“確かなもの”こそ、
どんなときも変わらぬ南無阿弥陀仏のはたらき。
蓮如上人は『御文』にこう書かれました。
まことに、死せんときは、
かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、
わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。
どんなに愛する家族も財産も、
最後のときには一緒に行くことはできません。
けれど――そのときになっても、
「あなたを決して見捨てない」と
誓ってくださる仏がある。
その喚び声が、
南無阿弥陀仏。
「南無」とは、“帰命”――命を帰すこと。
つまり、“よりかかる”ということです。
自分の力ではどうにもならないとき、
「それでもあなたを抱く」と
呼びかけてくださる方がいる。
南無阿弥陀仏の六字は、
私の口から出ているようでいて、
実は阿弥陀さまが私の口を借りて
名を称えさせてくださっている。
「我をたのめ。
我を力にし、我によりかかれ。」
この喚び声に触れたとき、
私たちはようやく肩の力を抜くことができます。
私たちは、つい「自分の力で生きる」ことを
正義のように思う。
けれど、ほんとうに強い人とは、
「よりかかる」ことを知っている人
なのかもしれません。
しがみつかなくていい。
我を張らなくていい。
そのままの姿で抱かれている――
それが念仏の世界。
夕日のように、今日も一日が沈んでいきます。
でもその光は、沈んでもなお、
誰かを照らしている。
「帰れ」と呼ばれる先には、
すべてを受け入れる大きな光がある。
南無阿弥陀仏。
その六つの音が、
あなたの心を照らし続けています。