夕日というのは、不思議です。

沈んでいくのに、どこか“帰っていく”ような

明るさを持っています。

その光の中に立つと、

胸の奥で小さく声がするんです。


「また会おう。ここで。」


お彼岸の夕暮れ、

境内の鐘がゆっくりと鳴りはじめると、

風がやさしく頬をなでてゆきます。


その風の中に、

どこか懐かしいぬくもりを感じる。

あの世とこの世の境い目が、

ほんのひととき、あやふやになる瞬間です。


仏教では、この世を「此岸(しがん)」、

悟りの世界を「彼岸(ひがん)」といいます。

けれど、二つの世界は

遠く離れているわけではない。

彼岸は、いつも此岸を包んでいる。


私たちは、その中を生かされているのに、

普段は気づかずに通り過ぎてしまう。


夕日がそれを、

静かに思い出させてくれるんです。


昔、ある門徒さんが言われました。


「住職、死んだらどうなるんですかね。

怖くないですか。」


私は少し考えて、こうお答えしました。


「“死ぬ”というのは、

光に帰ることかもしれませんね。

だから怖いというより、懐かしい。

阿弥陀さまの懐に、やっと帰っていくんです。」


“死ぬ”という言葉には、

いつも別れの響きがあります。

でも“帰る”という言葉には、安らぎがある。

南無阿弥陀仏の教えは、

私たちの「死」を

“帰る”という出来事に変えてくださるのです。


夕日の光は、沈むと同時に、

あちらの岸では昇っている。

だから、亡くなった方々は“消えた”のではなく、

向こう岸で、朝日を迎えておられる。


そしてその光が、またこちらを照らしている。


「生も死も、同じひとすじの光の流れ」


親鸞聖人の言葉に重ねれば、

“往還廻向”――すなわち、

この世からあの世へ、あの世からこの世へ。

いのちは往き来しながら、

絶えず私たちを導いてくださっているのです。


秋の彼岸には沈む夕日を、

春の彼岸には昇る朝日を。

そのどちらも、同じ阿弥陀の光。


「生きている者も、逝った者も、

みなこの光に照らされている。」


だからこそ、今ここに手を合わせるとき、

私たちはすでに“永遠”の中にいる。


南無阿弥陀仏。

沈む光の向こうに、

すべてのいのちがひとつに溶けていく。


“終わり”ではなく、“還る”。

その静けさの中にこそ、

仏の永遠が息づいているのです。