朝起きて、まず猫が「ニャー」と鳴く。

炊飯器のタイマーが鳴って、

妻が「ごはん冷めるよ」と声をかける。


――そうして始まる、いつもの一日。


特に特別なことはない。

けれど、そんな一日の中にこそ、

仏さまのはたらきが息づいている。

年を重ねるほど、そう感じるようになりました。


仏教には「念仏」という言葉があります。

多くの人は「南無阿弥陀仏」と口に出すこと

だと思っているけれど、

ほんとうの意味はもう少し深い。


“念”とは、「思い起こす」ということ。

つまり、“仏を心に念ずる”ということなんです。


「でも、住職。そんな時間、

日常にはなかなか取れませんよ」


とよく言われます。

たしかに、仕事、家事、子育て、介護……

やらねばならぬことに追われる毎日。


けれど、私はこう答えます。


「忙しい日常こそ、念仏の道場ですよ」


たとえば、洗濯物を干しているとき。

雨雲が出て、「あー、またか」とため息が出る。

そんなとき、

「思いどおりにならんなぁ」と気づけたら、

それはもう“無常を観る心”です。


炊飯器のごはんを焦がしたとき。

妻に「あなた、また!」と叱られて、

「すみません」と頭を下げる。

その瞬間、「我」が一つ柔らかくなる。

これも立派な修行です(笑)


念仏とは、

特別な場所で特別な心で称えるものではない。

むしろ、凡夫のままの心で称えるもの。


「怒っちゃいけない」「迷っちゃいけない」

と思うけれど、人間は怒るし、迷う。

そんな自分に気づいたとき、

「それでも照らされている」と知るのが念仏の心。


親鸞聖人は、

「念仏は行にして如来の御はたらきなり」
とお示しになりました。

私が称えるようでいて、

実は如来さまが私の口を借りて

称えてくださっている。


だから、念仏は“修行”ではなく“贈りもの”。

“努力”ではなく“ご縁”。


お寺に来るご門徒さんが、よくこう言います。

「住職、最近は忙しくてお念仏もできません」


そんなとき、私は言うんです。


「忙しい中でも、“ああ疲れた”とつぶやいたら、

それも“南無阿弥陀仏”ですよ。」


だって、“疲れた”という心の底には、

“がんばった”といういのちの響きがあるから。

そのいのちを、

仏さまはちゃんと見てくださっている。


日常は、煩悩と迷いの連続です。

でも、その迷いの中でしか、

仏さまのはたらきは届かない。


泥があるから、蓮が咲くように。

欠けた心があるから、南無阿弥陀仏が響く。


🌾南無阿弥陀仏。


ごはんを炊いても、焦がしても。

人に怒られても、笑われても。

それでもなお、照らされている。


そんな“ありのまま”の自分が、

すでに仏の光の中にある。


特別な修行は、いらない。

今日もごはんをよそいながら、

心のどこかで「南無阿弥陀仏」とつぶやけたら、

それでじゅうぶん。