夜のお参りの帰り道、
お寺の駐車場から見上げた空に、
ぽっかりと月が浮かんでいました。
その光を見ながら、ふと、
昼間のご門徒さんの言葉を思い出しました。
「住職、家にひとりでいると、
心まで冷えてくるんです」
静かな声でした。
長年連れ添った方を亡くされて、数年。
人はいても、どこか“ひとり”を感じてしまう。
それを私は、よくわかる気がしました。
人は、誰かと一緒にいても、
時に深い孤独を感じます。
心が通じない、理解されない、
自分の居場所がない――
そんな夜が、誰にもあります。
でも、仏教ではこう言うんです。
「ひとりであることを、恐れる必要はない。」
なぜなら、その“ひとり”を照らす光が、
すでに届いているから。
阿弥陀仏の光を、
「無碍光(むげこう)」といいます。
どんなものにも妨げられない光。
壁の向こうにも、心の闇にも、
静かに差し込む光です。
親鸞聖人は、この光をこう味わわれました。
「我らが闇を照らして、
智慧の太陽のごとくなる。」
つまり、孤独や悲しみの闇を消すのではなく、
その中でなお照らしてくださるということ。
私も若いころ、
ひどく落ち込んでいた時期がありました。
人との関係も、僧侶としての自信も、
全部見失いかけていた。
そんなとき、先輩の僧侶が言いました。
「一照くん、真っ暗な夜でも、
月はちゃんと出とる」
その一言が、不思議と心に沁みました。
夜があるから、月は輝く。
闇があるからこそ、光を感じる。
孤独の中こそ、仏のはたらきが見えるんです。
あるお年寄りが、独り暮らしの部屋で
毎晩お念仏を称えておられます。
「南無阿弥陀仏」と称える声は、
誰にも聞こえない。
けれども、その声を聞いている存在がいる。
阿弥陀さまは、「その声の中におわす」のです。
念仏を称えるたび、
それは**「あなたは独りではない」**
という光のメッセージ。
孤独は、悪いことではありません。
孤独は、心が何かを求めている証。
誰かに愛されたかった、
誰かを愛したかった――
その思いが消えずに残っているからこそ、
孤独を感じるんです。
そして、その“求める心”こそ、
阿弥陀さまが働いてくださっている証でもある。
妻が言いました。
「あなたって、時々“月みたい”だね」
「え、穏やかって意味?」
「いや、昼間はあんまり目立たないって意味」
……南無阿弥陀仏。
けれど、どんな光も“誰かの夜”を照らしている。
そう思えば、それで十分です。
🌕南無阿弥陀仏。
孤独の夜にこそ、光は届く。
見えなくても、感じなくても、
その光は、あなたの心の奥を静かに照らしています。
だからどうか、焦らずに。
今、あなたが抱える孤独の中に、
すでに仏さまのぬくもりが息づいています。