朝起きて、猫に「おはよう」と声をかける。
妻がコーヒーを淹れてくれて、
娘たちは寝ぼけた顔でパンをかじっている。
その光景を見ながら、
私はふと思うのです。
――ああ、今日も「日常」がある。
でも、仏教の眼から見ると、
この“日常”ほど、ありがたいものはありません。
親鸞聖人は
「念仏は行にして、
すなわち如来の御はたらきなり」
と説かれました。
つまり、私が南無阿弥陀仏を称えるとき、
それは私が言っているのではなく、
阿弥陀さまが私を通して
称えさせてくださっているということ。
そう考えると――
朝の「いただきます」も、
「いってきます」も、
「おかえり」も、
ぜんぶ“如来のはたらき”の中なんです。
ご門徒さんがよく言います。
「住職、私なんて毎日ぼーっとしてて、
念仏も忘れてますよ。」
私は答えます。
「いえいえ、忘れてる間も
阿弥陀さまが念じてくださってるんですよ。」
南無阿弥陀仏は、
私たちの“気づきの有無”に関係なく届く光。
だから、「称えられない」ときも
救いのただ中にある。
以前、スーパーでお会いしたご門徒さんが
言いました。
「住職、
こんなとこで会うなんて“ご縁”ですね!」
「そうですね。“ご縁”って、
レジにもあるんですよ」
「……どういう意味ですか?」
「“円(えん)”を出して“ご縁”がまわる、
ありがたい場所です」
二人で爆笑。
でもそのあと、ふと思いました。
日常のユーモアも、仏のはたらきなんだなと。
真宗の“念仏”って、修行でも祈願でもない。
「あなたの命は、もう救いの中にある」
と知らせる声。
だからこそ、
南無阿弥陀仏は、
特別な日でも、葬儀の場でもなく、
台所でも、通勤中でも、
心が折れそうな夜でも響いていい。
私の妻は現実主義者で、よくこう言います。
「あなた、ブログ書いてるとき、
顔がすでに“法話モード”になってるよ」
はい、すみません。
でもね、法話って別に説壇の上だけじゃなくて、
こういう“日常のボケとツッコミ”の中
にもあるんです。
怒ったり、笑ったり、泣いたり。
そのすべての瞬間を通して、
阿弥陀さまが
「よう生きとるな」と微笑んでくださっている。
🌾南無阿弥陀仏。
念仏は、特別な儀式ではなく、
平凡な一日の中でふっと心がやわらぐその瞬間。
洗濯物を干す風の中にも、
味噌汁の湯気の中にも、
光はちゃんと届いている。
今日もまた、当たり前のように朝が来た。
その「当たり前」が、
いちばん尊い“ご利益”なのです。