最近、あるご門徒さんに言われました。

「住職、人って“いつか死ぬ”とは思ってるけど、

“今日かもしれない”とは思えませんね。」


まさにそれ。

私も毎朝スマホのアラームを止めるとき、

「今日も生きてたか」とホッとしながら、

どこか他人事なんです。

でも、仏教ではこう言います。

“無常は心に来るのではなく、体に来る。”


「無常が来た」と聞くと、

なんだか風のように感じますが、

その風は“心”には吹かず、“身体”に吹く。


心ではどれだけ

「まだ大丈夫」と言い聞かせても、

身体に風が来たら、もう断れない。

人はみな、その風を一度は受ける。

そして、その時になって初めて――

「いのちは自分のものではなかった」

気づくのです。


以前、友人たちと

こんな話をしたことがあります。

「もし自分の“死ぬ日”がわかってたらどうする?」

友人A「仕事やめて旅行行く!」

友人B「温泉もいいな。金全部使い切るわ」

私「でもなぁ……いつ死ぬか知ってたら、

旅行も温泉も楽しめないぞ」

みんなで大笑いしました。


笑いながら、ふと思いました。

“いつ終わるかわからない”という仕組みこそ、

実は大きな慈悲なんだなって。


もし「死ぬ日」が分かっていたら、

その日までずっと怯えて生きてしまうでしょう。

だから、命をくださったものは

“取り上げる時”を

わからないようにしてくれたんです。


それが“無常の慈悲”。


だから、こう思うんです。


「ああ、明日でも明後日でもなかった。

 生きているのが今日なら、

死もまた“今日”かもしれない。」


生と死は、表と裏。

「生きている」と思うその瞬間、

もう「死を抱えている」ことになる。


でもそのことに気づくと、

今日という一日が、何より尊く感じられる。


今日が“最後”かもしれない。

そう思うと、人に文句を言ったり、

恨んだりして過ごすのが、

なんだかもったいなくなる。


この「もったいない」という感覚こそ、

人間が本当の幸せに出会う

入口なんじゃないかと思うんです。


浄土真宗では、

「信心を妨げるもの」があると説きます。

それが“自我”。

「俺が、私が」と思うその心が、

如来の“ありがとう”に順う道を邪魔してしまう。

無常に出遇うとき、

その“自我”は

何の役にも立たないことを知らされます。

病にも、老いにも、死にも、

「自分の力」では立ち向かえない。


だからこそ、

“南無阿弥陀仏”という呼び声に、

身をまかせていく。


人が死の間際に心のよりどころを探すとき、

阿弥陀さまはこう呼びかけてくださる。


「ここへおいで。ここ以外に、

あなたの心が安まる場所はない。」


その呼び声が、「南無阿弥陀仏」。


この六字の名号にご縁を結ばせていただくこと。

それが人間に与えられた最高の値打ちです。


自我がほどけ、

「ありがとう」と言える心が開く。

そして、心が静かに納まっていくとき――

「お浄土へ参らせていただきます」と、

自然に声が出る。


私たちは“生きている間”に、

この“心の落ち着き”を見つけていく。

それがすなわち「往生の道」。

死は終わりではなく、

無量のいのちへ生まれ出る第一歩。


🍃南無阿弥陀仏。


死の風は恐れではなく、呼び声。

無常は、いのちを奪う風ではなく、

いのちを“仏のもとへ送り届ける”風なんです。


今日、こうして生かされていること――

それ自体が、

もう“ご利益”そのものなんですね。