「住職、最近ほんとに物忘れがひどくてね。

 昨日食べた晩ごはんも

思い出せないんですわ」


そう言って笑うご門徒さんに、私は言いました。

「それでも“おいしかった”ことは

覚えてますよね」


「……あら、そう言われれば」


そうやって笑いあえた瞬間に、

もう“老い”は少しやわらかくなっていました。


年を重ねるって、

失っていくことの連続だと感じます。


体力が落ちる。

目がかすむ。

記憶が抜け落ちる。


けれども――

それと同時に、「見えなくなって、見えてくる」

ものもあるんです。


親鸞聖人は、

「老少不定(ろうしょうふじょう)」

と説かれました。


若くても死ぬことがある。

老いても生きる日がある。

いのちは予定どおりにはいかない。


だからこそ、

「今この一瞬」が、

どれほど尊いかを知らされるんです。


あるおばあちゃんが、こう言いました。

「昔はね、なんでも自分でできたんですよ。

 でも今は、なんにもできなくなって……」


私は答えました。

「“なんにもできない”って言いながら、

 人に“ありがとう”を

言えるようになったじゃないですか。」


その人は、少し照れて笑いました。


「若いころは、

ありがとうも言えなかったなぁ」


老いは、できなくなることじゃなくて、

素直になっていくことなのかもしれません。


仏教では、「無常」を悲しみではなく

“真実”として受け取ります。

変わることが、いのちの本質。

だから、老いることも滅びではなく、

自然の歩みなんです。


桜が散るように、

波が引くように、

人もまた、

静かに次のいのちのかたちへと移っていく。


それを“往生”と呼びます。


若いころの私は、

「年を取るのは怖いこと」だと思っていました。

でも最近は、

「怖い」と思えるだけの時間をもらったことが

ありがたいと感じます。


年を重ねていくことは、

自分をゆるめる稽古なんですね。


妻がよく言います。

「あなた、

最近“忘れた”って言うの早すぎない?」


はい。

もう“即忘れ往生”の境地です😅


でも、忘れるというのもまた救い。

恨みも、失敗も、しがみつきも、

少しずつ手放していけるから。


🪶南無阿弥陀仏。


老いとは、仏さまがそっと

「おかえり」と呼びかけてくださる準備期間。

できないことが増えるのは、

他の人に「ありがとう」と言える機会が

増えるということ。


若いころよりも不自由になった手で、

今日もこうして合掌できる。

その手のぬくもりの中に、

もう阿弥陀さまの光は届いています。