お葬式のあと、

ご門徒さんからよく聞かれます。

「住職、人は死んだら“どこ”へ行くんですか?」


私は答えます。

「“どこか”へ行くんじゃなくて、

“誰か”のもとへ還るんですよ」と。


“別れ”という言葉には、冷たさがありますね。

もう会えない、もう届かない。

でも、仏教でいう“往生”は、

別れではなく、

つながりのかたちを変えること。


つまり、

「さよなら」ではなく「また会いましょう」

というご縁の続きなんです。


あるお葬式で、

娘さんが泣きながらこう言いました。

「お母さん、どこ行っちゃったの……」


私はそっと合掌して言いました。

「今、お母さんが“あなたを見ている場所”に

還られたんですよ」


涙の中で、その娘さんが少し笑いました。

悲しみの中に、

かすかな温かさが灯る瞬間――

あの時、まさに“往生のはたらき”がありました。


親鸞聖人はこう言われました。


「往相廻向の恩徳を 知りて念仏申すべし」


阿弥陀さまの光に導かれて、いのちは往き、

またその光となって

私たちのもとへ還ってくる。


だから、亡き人を想うとき、

私たちは“呼ばれている”んです。


昔、義母が夫を亡くしたとき、

しばらく仏壇の前でこうつぶやいていました。

「お父さん、今どこにいるの」


私は少しして言いました。

「お義母さんの“泣き顔”のそばに、

ちゃんと座ってますよ」


そのあと義母は、

少し照れ笑いして言いました。

「……そりゃ困るね、

見られてたらご飯食べづらいわ」


こうして笑えたとき、

悲しみがほんの少しだけ、“ご縁”に変わる。


往生とは、命の流れの続きなんです。

この身体の命が尽きても、

その人を想う心の中で、

そのはたらきは続いていく。


「亡くなった人を想う」

それは、実は

「その人の光に包まれている」ということ。


ある日、娘が言いました。

「人って死んだら、ほんとにいなくなるの?」


私は答えました。

「ううん、“見えなくなるだけ”だよ。でも、

“見えないからこそ”

感じられることもあるんだよ」


仏教は、“いのち”を

固定されたものとして見ない。

変わりゆくものの中に、

変わらぬ“はたらき”を見る。

それが“往生”という教えです。


🌸南無阿弥陀仏。


別れの涙の中にも、

阿弥陀さまの光は届いている。

それは、「もう会えない」という悲しみを、

「また会える」ご縁へと変える光。


亡き人が往かれたその道は、

私たちもいつか歩む道。

だからこそ今、

このいのちを精いっぱい生きることが、

すでに“往生の道”の一歩なんです。