お盆の片づけをしていたら、

妻が言いました。


「また部屋のクーラーつけっぱなしだったよ」


……はい、やりました。

いや、正確には「やってしまっていた」んです。


私が謝る前に、

妻の“怒りセンサー”がピピッと反応。

そこからの30秒は、

もう説法どころではありませんでした😂


人の怒りって、ほんと一瞬ですね。

スイッチが入ると、もう止まらない。

でも不思議と、

自分の怒りは正しいと思い込んでしまう。


「こっちは正しいのに、なんで分からんの!」

……たぶん相手も、

まったく同じこと思ってるんですよね。


そんなとき、ふと

「凡夫は怒りに焼かれ、我にとらわれて迷う」 
という言葉が頭をよぎりました。

つまり、怒りは「我執(がしゅう)」──     “自分が中心”という
思い込みから生まれるんです。


「無我(むが)」という仏教の教えがあります。

“自分がない”という意味ではなく、

“自分は多くの縁に支えられて生きている”

という目覚め。


怒りの正体は、

「自分の思いどおりにならない世界」

を拒む心なんですね。


思えば、怒りって不思議です。

こみあげる瞬間は熱くなるのに、

時間がたつと、

なぜあんなに燃えたのか思い出せない。


それでも燃えカスだけは、ちゃんと残る。

しかも、けっこう長く。


以前、ご門徒さんがぽつりと言いました。

「住職、腹が立つ相手ほど、

後で思い出して気になるんです」


ほんと、それです。

怒りって、相手を焼いてるようで、

一番焦げてるのは自分なんですよね。


仏教では「瞋(しん)」という煩悩があります。

怒り・憎しみ・苛立ち。

これを火にたとえるんです。


でも阿弥陀さまの慈悲は、

その火を消す水ではありません。

火のまま、光に変えてくださる。

怒りを消そうとせず、

「怒ってる自分」を照らしてくださるんです。


ある日、娘に叱られました。

「パパ、人に説法してるのに、

ママにはすぐ怒るよね」


ぐうの音も出ません。

まさか家庭でブーメラン法話をくらうとは。


でもそのとき思ったんです。

阿弥陀さまの光って、

外から差すんじゃなくて、

こういう“身近な人の言葉”

として届くんだなって。


怒りは、我を映す鏡。

そこに「無我」の光が射すと、

ただの火が、温かい灯りに変わっていく。


怒る自分も、迷う自分も、

実はたくさんのご縁に包まれているんです。


最近は、妻に叱られるたびに思います。

「ああ、これも無我修行のチャンスか」と。


怒られても、叱られても、

その声が響くということは、

まだ関係があるということ。

そこにこそ、救いがある。


🔥南無阿弥陀仏。


怒りは“なくす”ものではなく、

“照らされる”もの。


その光の中で、

今日も私は、少し焦げながら、生きています。


🪷


怒りの中にも、阿弥陀さまのはたらきがある。

火もまた光。

照らされ、包まれ、また笑う。

それが、凡夫の歩む“無我の道”です。