天国の書 第2巻(1) | それゆけだんごむし!ーカトリック「神のご意志の王国」の霊性のブログ

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天国の書

神によって創造された、秩序、場所、目的に対する

被造物への呼びかけ

 

第2巻(1)

 

神のはしためルイザ・ピッカレータ

神の意志の小さな娘

 

  

 

 

 

 

ベル 目 次 ベル

 

【 1 】

 

1899年2月28日

 聴罪司祭の命令により、主との間に交わされたことを日ごとに書き始める。

 

1899年3月10日

 主は彼女に多くの懲罰を示される

 

◆1899年3月13日

 すべての被造物は人間に対する神の愛を語り、人間がいかに神を愛さなければならないかを教える。

 

◆1988年3月14日

 人間の罪は、神に人間を懲らしめることを強いる。

 

◆1988年3月18日

  慈愛は単純なものである。

 

◆1988年3月19日

 悪魔が美徳について語ることは出来ても、それを魂に植え込むことは出来ない。

 

◆1899年3月20日

 世界がこのような悲しい状態に陥ったのは、神を第一とする指導者に対する従順を失ったからである。

 

◆1899年3月31日

  苦しみの価値

 

◆1899年4月3日

 信頼のない謙遜は偽りの美徳である。

 

◆1899年4月5日

 イエスが魂を彼の愛の中に隠す方法。

 

 

 

 

J.M.J.

父と子と聖霊の御名によりて。

 

 

 

 

1899年2月28日

聴罪司祭の命令により、主との間に交わされたことを日ごとに書き始める。

 

正直に告白すると、私は大きな嫌悪感を感じています。私が自分に打ち勝つためにしなければならない努力は大きく、主だけが私の魂の拷問を知ることが出来ます。しかし、おお聖なる従順よ、おまえはなんと力強い絆で結ばれていることでしょう! おまえだけが私を打ち負かすことができ、私のあらゆる嫌悪感を凌駕し、ほとんど越えられない山を越えて、おまえは私を神の意志と聴罪司祭の意志に縛り付けます。しかし、どうかおお聖なる配偶者よ、私の犠牲が大きければ大きいほど、私は多くの助けが必要です。あなたの腕に抱かれ、私を支えてくださること以外、何も望みません。このようにして、あなたに助けられながら、私はあなたの栄光と私の迷いの中で、真実だけを語ることができるでしょう。

 

 

今朝、聴罪司祭がミサを捧げたので、私も聖体拝領を受けました。私の心は聴罪司祭が私に与えたこの従順のために、混乱の海に沈んでいました。イエスを受け入れると、私は自分の苦しみ、特に自分の不甲斐なさやその他多くのことをイエスに話始めました。しかし、イエスは私のことを気にも留めていないようで何も答えませんでした。ひらめきが頭に浮かび、私はこう言いました。

 

「イエスがいつものようにお姿を見せない原因が、私自身にあるかどうかは誰にも分かりません。」

 

だから私は心の底から彼に言いました。

 

「ああ、お願いです!私の善、私のすべてよ、私に対してこれほど無関心な態度をしないでください。私の心は痛みで張り裂けそうです。もしそれが書くことのせいなら、かまいません。たとえ私の命を犠牲にしても、必ず実行すると約束します!」

 

するとイエスは姿を変え、穏やかな表情で私に言われました。

 

「何を恐れているのですか?私はこの間もあなたを助けたでしょう?私の光は至る所であなたを取り囲むので、あなたはそれを明らかにさせることができるでしょう。」

 

 

 

意思の清らかさ

 

イエスがそうおっしゃっている間、どうしてかは分かりませんが、聴罪司祭がイエスの近くにいるのが見えました。そして主は彼に言われました。

 

「ご覧なさい、あなたがすることはすべて天国に通じます。それゆえ、あなたの歩み、言葉、行いのすべてが私の前に現れると思いながら、あなたがどんなに清らかに行動しなければならないかを見なさい。そして、もしそれらが純粋であるならば、つまり、もしそれが私のためになされるならば、私はそれらを最大の喜びとし、私の周りにあるそれらを、絶えずあなたのことを思い起こさせる多くの使者のように感じます。しかし、もしそれが低俗で地上的な目的のために行われるのであれば、私はそれを煩わしく感じるでしょう。」

 

こうおっしゃっているとき、主は彼の両手をつかみ、両手を天に掲げて彼に言われました。

 

「あなたの目はいつも高い所を見つめています。あなたは天国の人間です。天のために働きなさい!」

 

聴罪司祭とイエスが彼にこのように言っているのを見ている間、私の心の中では、もし人がそのように行動するなら、ある家を出て別の家に引っ越さなければならない人のようなことが起こるだろうと思いました。彼はどうするでしょうか? まず彼は自分の持ち物をすべて送り、それから自分も行きます。それと同じように、私たちはまず天国で私たちのために場所を取ってくれるように自分の行いを送り、その時が来たら自分も行きます。ああ、それらは私たちのためにどれほど美しい葬列を作ってくれるでしょう!」
 

 

 

信仰

 

さて、聴罪司祭に会いながら、主がこの徳について私に語られたように、信仰について書くようにと言われたことを思い出しました。このことを考えていると、一瞬にして、主が私をご自分のもとに引き寄せてくださったので、私は自分の外に出て、イエスと一緒に天空にいるように感じました。そして彼はこう言いました。

 

「信仰は神である。」

 

しかし、この二つの言葉には計り知れないほどの大きな光が含まれていたので、それを説明するのは不可能ですが、出来る限りのことはしましょう。

 

私は『信仰』という言葉から、『信仰』が神そのものであることを理解しました。物質的な食べ物が死なないように肉体に命を与えるように、信仰は魂に命を与えますが、信仰がなければ魂は死んでしまいます。信仰は人間を活性化し、信仰は人間を神聖化し、信仰は人間を霊化し、至高の存在に目を向けさせ、世の事柄については何も学ばないようにさせます。そして、もしそれを学ぶとすれば、神の中でそれらを学ぶのです。

 

ああ、信仰に生きる魂の幸福よ! その飛翔は常に天国に向かっています。自分の身に起こることすべてにおいて、魂は常に神の中で自分を見つめています。それゆえ、艱難のときと同じように、信仰は魂を神のうちに引き上げ、魂は嘆き悲しむことさえしません。ここで満足するのではなく、天国で満足することを知っているからです。同じように、喜び、富、快楽が魂を取り囲むなら、信仰は魂を神の中に引き上げ、魂は自分自身に言い聞かせます。

 

『ああ、私は天国でどれほど満足し、豊かになることでしょう!』 

 

ですから、魂はこれら地上のものに煩わしさを感じ、軽蔑し、足で踏みつけます。

 

私には信仰に生きる魂にとっては、何百万、何千万という硬貨、さらには王国全体を所有している人に対して、他の誰かが1セントを差し出そうとするようなもののように思われます。彼は何と答えるでしょうか? 彼はそれを軽蔑しないでしょうか? 彼はそれを顔に投げつけはしないでしょうか? 

 

私はこう付け加えます。

そしてその硬貨が地上のものと同じようにすべて泥だらけだったとしたらどうでしょう? それ以上に、その1セントが彼に貸されただけだったらどうなるでしょうか? 

この人はこう言うでしょう。

 

『私は莫大な富を享受し、所有しています。それなのに、あなたはこんなみすぼらしい泥だらけの1セントを私に差し出しました。しかもほんの短期間だけ私に貸そうとするのですか?』 

 

彼はすぐに視線をそらし、贈り物を受け取らなかったと思います。信仰に生きる魂も、地上的なものに対しては同様です。

 

 

 

さて、もう一度食べ物の話に戻りましょう。

 

食べ物を摂取することで、身体は維持されるだけでなく、食べ物の成分を共有し、それが身体そのものに変化します。

 

信仰に生きる魂についても同じです。

 

信仰は神ご自身ですから、魂は神そのものを生きるようになります。

 

そして神によって自らを養うことによって、魂は神の本質を共有するようになります。

そして、神と分かち合うことによって、神に似た者となり、神ご自身と共に変えられるのです。

 

それゆえ、信仰に生きる魂には、神が聖なるお方であるように、魂も聖であるということが起こります。

 

力強い神の力 — 魂の力。

賢明で、強く、正しい神 — 賢明で、強く、正しい魂。

そして、神の他のすべての属性についても同様です。

 

要するに、魂は小さな神になるのです。

 

ああ、地上におけるこの魂の祝福は、天国ではさらに祝福されることでしょう!

                                 

 

私はまた、主が愛する魂に言われる言葉も理解しました。

「私は信仰においてあなたを支えます。」

つまり、主という意味に他なりません。

 

この神秘的な結婚において、神御自身の美徳を魂に授けるようになります。

それは私には、二人の配偶者に起こることのように思えます。両者の財産が一緒になると、一方の持ち物は、他方の持ち物と区別できなくなり、両者が所有者となります。しかし、私たちの場合、魂は貧しく、すべての善は主から来ていますが、魂はその所有物を共有することができます。

 

魂のいのちは神であり、信仰は神です。

魂は信仰を持つことによって、信仰が心の中で王のようになり、他の美徳は信仰に仕える臣下としてその周りにとどまるように、他のすべての美徳を自分自身に接ぎ木するようになります。だから、信仰がなければ、美徳そのものが命を持たない美徳になります。

 

神は二つの方法で人間に信仰を伝えているように私は思います。

第一は聖なる洗礼です。

二つ目は、祝福された神が、神の実体の粒子を魂に解き放つことによって、死者を蘇らせたり、病人を癒したり、太陽を止めたりするなどの奇跡を起こす美徳を魂に伝える時です。

ああ、もし世界に信仰があれば、世界は地上の楽園に変わるでしょう!

 

ああ、信仰に身を投じる魂の飛翔はなんと高く崇高なことでしょう。

私には、信仰を実践することによって、魂は猟師や他の罠に捕まることを恐れて、木の上や、高い場所に住み着く臆病な小鳥のように行動するようになると思えます。そしてやむをえず、餌をとらざるを得なくなると、降下して餌を取り、素早く飛んで巣に戻ります。彼らの中には、より用心深く餌を取るものもいますが、地面で食べることはせず、安全のために木の上まで運び、そこでそれを飲み込みます。

 

同様に、信仰に生きる魂は、この世のものに対して非常に臆病なので、捕まるのを恐れて、それらを一瞥することさえしません。魂の住まいは高く、つまり、地上のすべてのものの上にあるのですが、特にイエス・キリストの傷の中にあります。そしてその祝福された部屋の中から、魂は配偶者であるイエスと共に、人類の置かれた状況と悲惨さに呻き、涙し、祈り、苦しむのです。

 

魂がイエスの傷の穴の中で生きている間、主は魂に美徳の粒子を与えるので、魂はそれらの美徳を自分のものであるかのように自分の中で感じます。しかし魂は、それらを自分のものとして見ていますが、それらが主によって魂に与えられているものだと理解しています。それはまるで、自分が持っていなかった贈り物を受け取った人のようです。それらは何をするでしょうか?魂はそれを受け取り、自分がその持ち主になります。しかし、魂はそれを見るたびに自分に言い聞かせます。『これは私のものですが、誰々さんからもらったものです。』 主が、ご自身の神聖な存在の粒子をご自分から解き放つことによって、ご自身の中で変容させる魂もまた同様です。

 

さて、この魂が罪を忌み嫌うように、魂もまた他者を憐れみ、断崖絶壁の道を歩いている人を見て祈ります。魂はイエス・キリストと一体となり、神の正義をなだめ、被造物にふさわしい懲罰を受けさせないために、自らを生贄として捧げます。そして、もし魂の命の犠牲が必要であったなら、ああ、魂はたった一人の魂の救いのために、どんなに喜んでその犠牲を払うことでしょうか!

 

 

彼女がイエスの神性をどのように見ているのか

 

聴罪司祭が、私がどのように主の神性を見ているかを説明するようにおっしゃられた後、私は何も話すことはできないと答えました。しかし夜になって祝福されたイエスが私の前に現れ、私が拒絶したことを注意され、それから、主は最も光輝く二つの光線を私の中に放たれました。

 

最初の一本で、信仰は神であり、神は信仰であるということを私の知性で理解しました。私は信仰についていくつか述べてみました。

 

さて、私が神をどう見ているかをお話しましょう—これが第二の光線でした。

 

私は自分の外にいて、天の高みにいる自分に気が付くと、光の中に神を見ているように思えました。神ご自身は光であるように思われ、その光の中には美があり、強さがあり、知恵があり、広大さがあり、高さがあり、深さがあり、果てしなく無限です。私たちが呼吸する空気の中にも神が存在し、私たちは神を呼吸しています。ですから、一人一人が、神がそうであるように、神を自分の命にすることができるのです。神から逃れるものは何もなく、何ひとつ神から逃れることはできません。この光はしゃべらないけれども、すべての声のようです。そして、常に休んでいるにもかかわらず、すべての動作をしています。場所を占有しないにもかかわらず、どこにでも存在します。そして、それはどこにでも存在する一方で、それ自身の中心も持っています。

 

おお、神よ、あなたはなんと理解しがたいお方なのでしょう! 私はあなたを見、あなたを感じ、あなたは私のいのちであり、あなたは私の中であなた自身を拘束していますが、あなたは常に計り知れない存在であり続け、あなた自身を何一つ失うことはありません。

 

 けれど、どもってしまって、何も言えないような気がします。

                                

もっとうまく説明するために、人間の言葉で説明すると、私は被造物全体に神の影を見ています。というのも、被造物全体において、神はある場所に神の美しさの影を投げかけ、ある場所には神の芳香を投げかけ、ある場所には神の光を投げかけ、太陽のように、私はそこに神の特別な影を見ています。私はこの世界の中に隠されている他のすべての領域の王として神を見ています。太陽とは何でしょうか? それは炎の球体にほかなりません。球はひとつですが、その光線は数多くあります。このことから、球が神であり、光線が神の計り知れない属性であることが容易に理解することができます。

 

二つ目は、太陽は炎ですが、光であり熱でもあります。これが太陽のベールに包まれた至聖なる三位一体です。炎は父、光は子、熱は聖霊です。しかし太陽は一つであり、炎と光と熱から切り離すことができないように、父と子と聖霊の力も一つであり、お互いを切り離すことができません。そして、炎が光と熱を同時に生み出すように、光と熱なしには炎は考えられません。同じように、御父は御子と聖霊の前に存在することはできず、その逆もまた然りですが、三つとも同じ永遠の始まりを持っています。

 

私は太陽の光はどこまでも拡散すると付け加えます。同じように、神はその広大さであらゆる場所に浸透します。しかしこれは影にすぎないことを忘れてはなりません。なぜなら、太陽はその光で貫くことのできない場所には到達できませんが、神はどこにでも浸透するからです。

 

神は最も純粋な霊であり、私たちは神を太陽に例えることができます。そのため、その光線はあらゆる場所を貫通し、だれも手でつかむことはできません。さらに、神は人間の咎や悪など、すべて見ておられますが、常にありのままの、純粋で、聖なる、汚れなき御方でいらっしゃいます。

 

神の影は太陽であり、その光がゴミの上に送られても、無垢なままです。それは火の中に光を広げますが、燃やされることはありません。海や川でも溺れることはありません。それはすべてに光を与え、すべてのものを肥沃にし、その熱ですべてのものに生命を与えますが、光に乏しくなることもなく、その熱を失うこともありません。さらに神は、すべての人に多くの善を施す一方で、誰も必要とせず、常にあるがままであり、荘厳で、輝いており、不変であり続けます。 

 

ああ、なんとよく太陽に神聖な特質を見ることができるでしょうか! 

 

その巨大さゆえに、神は炎の中に存在しますが、焼かれることはありません。海に入っても溺れることはありません。私たちの足元で踏みにじられることもありません。神はすべての人に与えますが、貧しくなることはなく、誰も必要としません。神はすべてもものを見ておられます。さらに神はすべての目であり、聞こえない者は何一つありません。神は私たちの心の繊維のひとつひとつ、心の思いのひとつひとつに気付いておられますが、最も純粋な霊である神は耳も目も持ちませんが、何が起ころうとも決して変わらないのです。太陽はその光で世界を照らし、疲れることがありません。同じように、神はすべての人に命を与え、世界を助け、支配し、疲れることはありません。

 

 

人は太陽の光を浴びないように、隠れたり、庇を設けたりすることが出来ますが、太陽は何もしません。太陽はそのままで、すべての災いは人間に降りかかります。同じように、罪を犯すことによって罪人は神から離れ、もはや神の恩恵を享受できなくなりますが、彼は神に対して何もせず、悪はすべて彼自身のものです。

 

太陽の丸さもまた、始まりも終わりもない神の永遠性を象徴しています。太陽の照りつける光は誰の目にも抑えることができません。真昼の輝く太陽を見つめたいと思うなら、目がくらんだままでしょう。太陽に人間が近付こうとすれば人間は灰になってしまします。神の太陽についても同じです。いかなる被造物もその小さな心の中でそれを制限することは出来ませんし、そのすべてを理解することはできません。そしてもしそれをしようとしても、目がくらみ、混乱したままでしょう。そしてもしこの神聖な太陽がその愛のすべてを示そうとし、人間が死すべき肉体の中にいながらその愛を感じることを望むなら、彼は灰になってしまうでしょう。

 

つまり、神は被造物全体にご自身の影を、ご自身の完全性を落とし、その中に私たちは神を見て、神に触れ、そして絶えず神に触れることができるのです。

 

これに加えて、これらの言葉を言った後、主がこう言われました。

 

「信仰は神である。」

 

私は主に言いました。

 

「イエスよ、あなたは私を愛しておられますか?」

 

そして彼はこう付け加えました。

 

「あなたは私を愛しているのですか?」

 

すぐに私は言いました。

 

「そうです、主よ、あなたなしでは私の中にいのちが欠けていると感じていることをあなたはご存じです。」

 

「それならば」

 

イエスは続けました。

 

「あなたは私を愛し、私もあなたを愛しています。ですから私たちはお互いに愛し合い、いつも一緒にいましょう。」

 

こうして朝が終わりました。

 

さて、私の心がこの神聖な太陽のことをどれだけ理解したかは誰にもわかりません。私はいたるところでそれを見、それに触れているようです。それ以上に、私の内面的にも外面的にも、それに影響されていると感じています。しかし私の能力はとても小さく、神について何かを理解しているように見えますが、神を見た瞬間、何も理解していないように思えます。さらに私はナンセンスなことを言ってしまったようです。イエスが私の虚言を許してくださることを願っています。

 

 

 

 

1899年3月10日

主は彼女に多くの懲罰を示される

 

いつもの状態でいると、愛すべきイエスが憤慨し、苦しんでいる姿をお見せになり、こうおっしゃいました。

 

「娘よ、私の正義は重くなりすぎました。人間から受ける侮辱はあまりにも多く、もはやそれに耐えることができません。死の大鎌は、ある日突然、病気によって多くのものを収穫しようとしています。私が世に下す懲罰は非常に多く、それは一種の裁きとなるでしょう。」

 

主が私に示された多くの懲罰と、私がどれほど恐怖に怯えていたかを誰も語ることができません。私の魂が感じる痛みはとても大きいので、黙っていた方が良いと思います。

 

しかし、従順が語ることを望んでいるので私は続けます。

 

街路が死体で埋め尽くされ、地面には血が溢れ、子供さえ容赦しない敵に包囲された都市が見えました。彼らはまるで地獄から出てきた多くの猛獣のようでした。彼らは教会も聖職者も敬いませんでした。主は天から懲罰を送られたようでしたがそれが何なのか、私には分かりません。私たちは皆、致命的な打撃を受けるように思われました。ある者は死の犠牲者となり、ある者は回復するでしょう。私はまた、植物が枯れ、収穫をめぐって多くのトラブルが起きているのも見えました。ああ、神よ、これらのことを目のあたりにし、それを現すことを余儀なくされるのはなんという苦痛でしょう! ああ、主よ、怒りを鎮めてください! あなたの血と傷が私たちの救済となることを願っています。いえ、むしろ、この罪人に懲罰を注いでください。私はそれに値するからです。でなければ、あなたが自分の望むことを何でも自由に出来るように、私を連れて行って下さい。それでも、私が生きている限りは、懲罰に反対するために出来る限りのことをします。

 

 

 

 

1899年3月13日

すべての被造物は人間に対する神の愛を語り、人間がいかに神を愛さなければならないかを教える。

 

今朝、愛するイエスは、柔和と甘さに満ちたいつもの姿ではなく、厳しい姿でご自身を現わされました。私の心は混乱の海の中にあり、特にこの数日私が見た懲罰のせいで、私の魂はとても苦しみ、消滅するようでした。私はそのお姿を見て、彼に何も言う勇気がなく、私たちは顔を見合わせましたが、黙っていました。ああ神よ、なんという痛み! すると一瞬のうちに聴罪司祭を見ました。イエスは一筋の知的な光を放ち次のように言われました。

 

「慈愛。慈愛とは、神聖な存在のほとばしりに他なりません。このほとばしりを私は被造物全体に拡散させました。被造物はすべて、私が人間に抱いている愛を語り、それらはすべて、最も大きな存在から野原に咲く最も小さな小さな花に至るまで、人間がどのように私を愛さなければならないかを教えています。

 

それは「見てください」と人間に言います。「私は甘い香りを漂わせながら、常に空を仰ぐことで、創造主への敬意を表そうとしています。あなたもすべての行いを薫り高く、神聖で、清らかなものにしてください。あなたの行いの悪臭で私の創造主を侮辱しないでください。ああ、お願いします、人間よ。」 

 

小さな花は私たちに繰り返します。「地を見続けるような無分別なことはしてはなりません。むしろそれらを天に引き上げなさい。ほら、あそこにあなたの未来と、あなたの祖国があります。そこで私の創造主が、そしてあなたの創造主があなたを待っています。」 

 

目の前を絶え間なく流れる水は、私たちにこうも言っています。「ほら、私は暗闇の中から出てきました。私はもといた場所に埋もれてしまうまでたくさん流れ、走り続けなければなりません。ああ、人間よ、あなたも走りなさい。しかし神の懐に走りなさい、あなたはそこから来たのだから。ああ、お願いです!お願いだから、間違った道、断崖絶壁に通じる道を走らないでください。そうでなければあなたに災いが降りかかります!」

 

野生の動物でさえ私たちに繰り返します。

「見なさい、人間よ、あなたは神ではないすべてのものに対して、なんて乱暴なことをしているかを見なさい。ほら、私たちは誰かが近付いてくるのが分かると、咆哮をあげて恐怖をあおるので、もはや誰も私たちに近づこうとせず、私たちの平穏を邪魔しようとしません。あなたも、この世の悪臭、つまりあなたたちの激しい情欲が、あなたがたを泥まみれにし、罪の深淵に落ちこませようとするとき、あなたがたの祈りの咆哮とともに、あなたがたの身を置く場所から身を引くことで、どんな危険からも免れるでしょう。」

 

他のすべての存在についても同様で、すべてを語るには時間がかかりすぎます。彼らは声をそろえて私たちにこう繰り返します。

「御覧なさい、おお、人間よ、私たちの創造主は、あなたを愛するがゆえに私たちをお造りになり、私たちは皆あなたに仕えています。私たちはあなたにお願いします。どうかそんなに恩知らずにならず、愛してください。愛を込めて私たちはあなたに繰り返します。私たちの創造主を愛してください。」

 

この後、愛すべきイエスは私にこう言われました。

 

「私を愛するがゆえに、神とあなたの隣人を愛しなさい。私が望むのはこれだけです。私がどれほど人間を愛してきたかを見てみなさい。しかし人間はとても恩知らずです。私に彼らを懲らしめて欲しくないのはなぜですか?」

 

その瞬間私は恐ろしい雹と、植物や人間を破壊するほどの大きな被害をもたらす地震を見ました。そして、魂の苦しみを込めて私はイエスに言いました。

 

「常に愛すべきイエスよ、なぜそんなに憤慨するのですか?もし人間が恩知らずであるとすれば、それは悪意のためではなく弱さのためです。ああ、もし彼らがあなたのことを少しでも知っていたら、ああ、彼らはどんなに謙遜で心が震えることでしょう! ですから心を鎮めてください。少なくともコラートと私に属するものたちに特別な情けをお願いいたします。」

 

そう言っているうちに、コラートでも何かが起きているように思えましたが、他の町で起こることに比べれば被害は少ないと思います。

 

 

 

 

1988年3月14日

人間の罪は、神に人間を懲らしめることを強いる。

 

今朝、最も甘美なイエスは私をご自分と一緒に運んでくださり、犯されている罪の多様性を私に見せてくださいました。それらはあまりにも多く、あまりにも多く、それらを説明することは出来ません。また、空中に巨大な星が見え、その丸みの中に黒い炎と血が含まれていました。それを見ていると恐怖と不安に襲われ、こんな悲しい時代に生きるくらいなら、死んだ方がましだと思えてきました。他の場所ではより多くの口が開いた火山を見ることが出来、またその近くの国も被害に見舞われるでしょう。また、火種を起こし続ける宗派の人々も見えます。私がこれを見ているとき、愛すべき、しかし苦悩に満ちたイエスが私にこう言われました。

 

「あなたがたは、彼らがどれほど私を傷つけ、私が何を準備しているかを見たことがありますか? 私は人間から手を引きます。」

 

そして、イエスがこのように言われた時、私たち二人は私のベッドに退きました。そしてこのイエスの撤退のために、人々がより恐ろしい行為、より多くの殺人に身を委ねることになるのが私には分かりました。一言で言えば、私は人と人との対立を見ているようでした。私たちがいったん引き下がると、イエスは私の心の中にご自身を置かれたようで、泣きじゃくりながらこう言われました。

 

「おお、人間よ、私はどれほどおまえを愛してきたことでしょう! もしも私がおまえを懲らしめなければならないことをどれほど悲しんでいるかを知っていたなら! しかし私の正義は私にこれを強います。 おお、人間、人間よ!おまえの運命のために、私はどれほど泣き、悲しむことでしょう。」

 

そして涙を流し、またその言葉を繰り返されました。

 

私の魂に生じた憐れみ、恐れ、苦しみを誰が言い表すことができるでしょうか。特にイエスがとても苦しんで泣いているのを見たときは! 私はできる限り悲しみを隠そうとし、イエスを慰めるためにこう言いました。

 

「ああ、主よ、あなたが人間を懲らしめることは決してありません。聖なる配偶者よ、泣かないでください。今までと同じように、私に今、それを注ぎ、私を苦しめてください。そうすれば、あなたの正義はあなたの民を懲らしめることをあなたに強いることはないでしょう。」

 

イエスは泣き続け、私は繰り返しました。

 

「私の言うことを少し聞いてください。あなたが私をこのベッドに置いたのは、私が他の人たちの犠牲になるためではないのですか? 私は被造物を救うために、いつだって苦しむ用意が出来ていなかったでしょうか?なぜ今、私の言うことに耳を傾けようとしないのですか?」

 

しかし私のつたない話し方ではイエスは泣き止みませんでした。それでもう我慢できなくなった私もわっと泣き出し彼に言いました。
 

「主よ、もしあなたのお考えが人を懲らしめることなら、私も被造物がこれほど苦しむのを見る勇気はありません。だから、もしあなたが本当に鞭を送りたいとお望みで、私の罪がもはや私を他の人の代わりとして苦しめるにふさわしくないのなら、私はもうこの地上にいたくありません。」

 

そのあと聴罪司祭が来て、私に従順を呼びかけたので、イエスは引き下がられました。

 

翌朝、私はイエスが私の心の中に引きこもっているのを見続け、人々が私の心の中にまで入って来て、イエスを踏みつけては、引きずり回すのを見ました。私はイエスを助けるために出来る限りのことをしようとすると、イエスが私の方を向いてこう言われました。

 

「人間の恩知らずがどこにまで及びか分かりますか?彼ら自身が私に彼らを懲らしめるように強制しているのです。そうでなければ私は何もできません。 そして私の愛する者よ、私があれほど苦しんだのを見たのですから、十字架をもっと大切にし、苦しみを喜びとするようになりなさい。」

 

 

 

1988年3月18日

慈愛は単純なものである。

 

今朝、私の愛するイエスは、私の心のおくそこからご自身を現わし続けて下さりました。そしてイエスが少し元気を取り戻されたのを見て、私は勇気を奮い起こし、イエスがそんなに多くの懲らしめを送られないようにと祈り始めました。そして、イエスは私に言われました。

 

「娘よ、被造物を懲らしめないように私に祈るとは何事ですか。何があなたを駆り立てるのですか。」

 

私はすぐにこう答えました。

 

「なぜならそれらはあなたの御姿であり、被造物が苦しむなら、あなたご自身も苦しむことになるからです。」

 

そしてイエスはため息をつきながら言われました。

 

「慈愛は私にとってとても大切なもので、あなたには理解できません。慈愛は単純です。私の存在と同じで、広大ではありますが、最も単純です。浸透しない場所がないほどです。ですから慈愛とは、単純であるためにどこにでも広がります。それは人を選ばず、敵であろうと味方であろうと、市民であろうとよそ者であろうと、すべてを愛します。」

 

 

 

                                

1988年3月19日

悪魔が美徳について語ることは出来ても、それを魂に植え込むことは出来ない。

 

今朝、イエスがお姿を現されたとき、私はそれが本当のイエスではなく、悪魔が私を惑わそうとしているのではないかと不安になりました。私がいつものように不満を言っていると、イエスはこう言われました。

 

「娘よ、恐れることはありません。私は悪魔ではありませんから。その上、もし悪魔が美徳について語るとしても、それは色付けされた美徳であり、真の美徳ではなく、魂に美徳が植え付けられるわけでもなく、美徳について語るだけの徳です。そしてもし悪魔が魂に少しでも良いことをさせたいと思うことがあるとしても、魂は忍耐強くなく、魂が少しでも良いことを行なう行為そのものにおいて、やる気がなくイライラしています。私だけが、魂の心に私自身を植え付け、魂に美徳を実践させ、勇気と静寂と忍耐をもって苦しませる力を持っています。では、悪魔は美徳を求めたことがあるでしょうか? 悪魔の狩りは悪徳のためです。それゆえ、恐れることはなく、落ち着いていなさい。」

 

 

 

 

1899年3月20日

世界がこのような悲しい状態に陥ったのは、神を第一とする指導者に対する従順を失ったからである。

 

今朝イエスは私を自分の外に連れ出し、不和にある多くの人々を見せてくださいました。ああ、このことがどれほどイエスを悲しませたことでしょう!主がひどく苦しんでおられるのを見て、私はそれを私に注いでくださるように神に祈りました。しかし、イエスは今もなお夜を罰したいと思い続けておられるので、私にそれを注ごうとはされませんでした。しかし、私が神に祈った後、私を満足させるために、主はそれを少し注いでくださいました。そしてほっとしたように私に言われました。

 

「世界がこれほど悲しい状態に陥ったのは、世界が指導者への従順を失ったからです。しかも最初の指導者は神に敵対するものだったので、その結果として彼らは教会や法律、そして指導者と呼ばれる人たちに対する従順と信頼を失うということが起こりました。ああ、娘よ、指導者と呼ばれる人たち、つまり上司や親など、この悪い見本に感染した多くのメンバーたちはどうなるのでしょうか? ああ、彼らは親も兄弟も、王も王子も認められなくなります。これらのメンバーは、互いに毒を盛る多くに毒蛇のようになるでしょう。 それゆえこのような時代に懲罰がいかに必強であるか、また、この種の人々を完全に滅ぼしてしまうには死がいかに必要であるかを理解しなさい。そうすれば、残された数少ない人々は、謙遜で従順であることを人々の犠牲の上に学ぶことができます。私が人々を罰することに反対しないで、私にまかせなさい。」

 

 

 

1899年3月31日

苦しみの価値

 

今朝私の愛すべきイエスは、ご自身を十字架につけられたお姿で、その痛みを私に伝えた後、こう言われました。

 

「受難の時に私を苦しめた傷はたくさんあります。そのひとつは十字架です。そのため、私が魂を完全なものへと導く道は数多くありますが、これらの魂が一つになるべき天国はひとつなのです。だから、もしその天国を逃したら、彼らを永遠に祝福できるものはありません。」

 

そしてこう付け加えました。

 

「御覧なさい。十字架はひとつですが、この十字架は様々な木片で形作られています。つまり、天国はひとつですが、この天国には多かれ少なかれ栄光をもたらす様々な場所があるということです。そしてこれらの場所は、十字架で受けた苦しみの量に応じて、大きくも小さくも割り当てられます。ああ、もしすべての人が苦しみの尊さを知っていたら、彼らはもっと苦しもうと互いに競い合うでしょう! しかし、この科学は世界に認められていないので、彼らは自分たちを豊かにしてくれるものすべてを忌み嫌うのです。」

 

 

 

1899年4月3日

信頼のない謙遜は偽りの美徳である。

 

数日間の窮乏と涙の日々を過ごし、私は混乱し滅入っていました。私は心の中で言い続けました。

 

「私の善よ、教えてください。なぜあなたは私から離れてしまったのですか?私はどこであなたを怒らせたのでしょう?あなたはもはやご自身のお見せにならず、お姿を見せたとしても、ほとんど隠され沈黙しています。おお、どうかこれ以上待たせないでください。私の心はこれ以上耐えられません!」

 

やっとイエスはもう少しはっきりとご自身を示され、私が滅入っているのをご覧になりこう言われました。

 

「もしあなたが私がどれだけ謙遜を好むかを知っていたなら…謙遜は見つけることの出来る最も小さな植物ですが、その枝は天国に届くほど高く、私の玉座に巻き付き、私の心の奥深くまで入り込みます。この小さな植物は謙遜で、この植物が生み出す枝は信頼です。ですから、信頼なくして真の謙遜はあり得ません。信頼の無い謙遜は偽りの美徳です。」

 

イエスの言葉から私の心は打ち砕かれただけでなく、少し失望しました。

 

 

 

1899年4月5日

イエスが魂を彼の愛の中に隠す方法。

 

私の魂は愛するイエスを失うことへの恐怖と絶望の中にありました。そのときイエスは突然姿を現しこう言いました。

 

「私はあなたを私の慈愛に影に留めています。影はどこにでも入り込むので、私の愛はあなたをどこにでも、あらゆるものの中に留めておきます。では何を恐れるのですか?私の愛の中に沈んでいるあなたからどうして離れることが出来るでしょう?」

 

イエスがそう言っている間、私はイエスになぜいつものようにご自分のお姿を見せてくださらないのかとお尋ねしたかったのですが、イエスはすぐに私の前から姿を消し、一言も話す暇を与えてくれませんでした。ああ神よ、なんという苦痛でしょう!

 

 

 

(2)へ続く…

 

 

ヨハナ通信

 

「天国の書」第2巻を始めました。

今回は、「我らの主のご受難の二十四時間」と違って、

頑張れば古本で手に入るかもしれないレベルの本なので、

アメンバーにしました。

 

天使館から出版されている本の素晴らしい翻訳とは天と地ほど違っていて

お恥ずかしい限りなのですが、

こんな程度でお読みくだされば幸いです。

 

読み進めるほど、神の意志の素晴らしさ、

ピッカレータの霊性の素晴らしさに魅了されると思います。

独特な言い回しが多いので、あれ?と思うことも多いと思いますが、

何回も読んでいると、不思議と分かってくるようになるのでした。

 

ただ言えることは、普通のカトリックの教えとは毛色が違います。

新しい神学とも言えるかもしれません。

本の中でイエス様が新しい時代に切り替わるときであるとおっしゃっています。

何十年、年百年かかって、徐々に新しいものに変わっていくのかもしれません。

 

私たちはまだその始まりにいます。

 

神の意志の小さな子供たちが増えていきますように。

 

 

 

 

 

「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

日本では4巻まで発行されていますので、がんばれば古本で手に入れることも可能です。

 

また外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

こちらになります↓

 

 

 

 

キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ