工学部の数学では主に解析学をやることになるのですが、つまづく原因となっているが無限小概念dx,dyです。

 

事例:熱力学第二基礎式の導出

流体のエンタルピーをHとする。流体1kgあたりの比エンタルピーhは

h=u+pvと定義される。(u:内部エネルギー、v:体積、p:圧力)

 

比エンタルピの微少量を考えると、

 

dh=du+d(pv)  が成立する。

上式は

 

dh=du+(vdp+pdv)

 =dq+vdp (熱力学の第二基礎式)

 

さて、この時点で既に怪しげな式変形がなされています。まるでdそれ自体意味を持っているようです。

さらにこの式を特に説明もなく積分したりします。例えば、圧力が一定の条件下で流体を加熱する場合を考えます。熱気球をバーナーで加熱するような状況です。

 

熱力学第二基礎式から

 

dq=dhーpdv

両辺を積分する。低圧条件下ではpdv=0なので、

 

 q=∫dhー∫vdp

  =h2ーh1ー0 (h1:加熱前のエンタルピ、h2:加熱後のエンタルピ)

  =Δh 

よって低圧状態において加熱量はエンタルピ変化に使われると言うことが分かる。

 

ー以上ー

 

・・・んん?上記の式変形にも疑問があります。青字の積分の積分対象となっている関数は値「1」で後ろのオマケのような記号dh,vdpにどんな扱いをすべきか曖昧なのです。dp=0と言う物理的な考察を適用していますが、この代入はこのタイミングでいいのでしょうか?思えば高等数学では、積分の後ろの記号について深い議論はなされてきませんでした。

 

この手の微積分の式変形は工学の中でしょっちゅう出てきて、工学を分からなくさせる原因となっています。空気抵抗を考慮した落下運動の微分方程式の解法や慣性モーメントの計算などなどです。

 

それではdx,dyとは何なのか?どの様に向かい合えばいいのか?調べたところ、以下の4つの立場があります。個人的な見解です。間違っているかもしれません。

 

(1)εーδ論法(コーシーの立場)

  εーδ論法により、限りなく0に近い〜とか言う表現を回避して、連続性の定義を与える。無限小概念から巧く逃げたと言える。いわゆる厳密化された微分積分で、現在の数学のスタンダードになっている。微分の対象は関数である。

 

(2)オイラーの立場

  無限小dx,dyをそもそも証明の対象にせず、限りなく小さい値、無限小dx,dyという量がそもそも存在しており、その値は0である。しかし計算の過程では0ではない。

 

(3)超準解析

無限小や無限大を定義域に組み込んだ超実数と言う数の範囲で無限小dx、dyを取り込んだまま導関数を求める体系を構築する。ライプニッツの記法を成り立たせるために考えられたが、依然としてdxとdyの直感的な理解は得られない。

 

(4)神関数rを導入することで、無限小が存在しても存在しなくても得られる結果は同じだと言うことを示し、無限小の実在には立ち入らないで実践的な計算体系として捉える立場。

これは現在勉強中で、「両辺に∫(インテグラル)つけちゃっていいの? 高校では教えないが、大学でも教えてくれない微積の読み方 (日本語)」と言う本で世に広く公開された考え方。

 

現在、高校数学〜工学数学は(1)と(2)が入り乱れた立場で書かれています。このこともまた混乱の元になっていると思う。書いている著書にも自覚が恐らくなく、各々が受けてきた工学教育の慣例に従った書き方を踏襲しているのではないでしょうか?

この立場に関する解説は、九州大学の高瀬正仁教授の微分積分の各種参考書に詳しく記されています。

 

この無限小概念恐らくほぼ全ての工学者が理解しないまま使っています。博士号を取得した研究者や大学教授などに聞いても「多分エンタルピーとか微分方程式の解法の操作とか本当の意味で何をやっているか理解して使っている人はいないと思う・・」という意見をよく聞きます。そもそも教えられてないんだから分からないのも当然なんです。

 

実は、無限小概念はその誕生時から物議を読んでいるのです。無限小概念は点や線の実在性に関連し、突き詰めると私達がこの世に存在していること、もっと言うとこの世界が存在するということまで危うくする概念であったため、当時のカトリックキリスト教会が無限小概念を否定しています。数学の概念が社会を二分したのです。当時の秩序であるキリスト教は無限小の有効性を理解しつつもそのあまりの異様さのため受けれることができなかったのです。このため、イタリアは数学の聖地の座を失い、以後、フランスやイギリスで数学が発展していくこととなりました。この話は「無限小ー世界を変えた危険思想」に詳しく記されていました。無限小は想像以上に大きな問題だったのだと言うことがわかります。

 

無限小という数学概念を巡って、ヨーロッパ世界が二分されるほどの論争を生んだのです。つまり、無限小に関する違和感はむしろ持って当然の問題意識であり、当時の天才たちの間でも意見が割れるほど難解な問題だったのです。

 

私個人の印象では無限小に対するどの立場も定義をいじって論理的に矛盾が生じないようにしただけで、「限りなく小さい値」という概念に直感的な理解を与えてくれるものではありません。むしろ無限小概念は直感的な理解が原理的に不可能であり、それゆえに複数の理論体系が生じているのだと思いました。

 

実践的には、微積分にはこういった深い問題が潜んでいることを自覚しつつも、実際の計算は(2)オイラーの立場で、無限小というものがそもそも存在していて、例えば、d(xy)=xdy+ydxといった関係が成り立つものなんだと受け入れてしまうのが学習を進めていきやすいのだと思います。

 

因みに、無限小と無限という概念は数学全体を横に貫いていて、数学のあらゆる領域に影響を及ぼしています。例えば、無理数、カントールの対角線論法、ゲーデルの不完全性定理、P≠NP問題、微積分、フラクタルとカオス理論、、、