昨日頑張りすぎた反動からか、今日は驚くほどゴミ虫のような生活を送っていた。やばい。テストも近いのにやばい。今日の主な活動は一年以上楽しみにしていたやはり俺の青春ラブコメは間違っている。の13巻を読んで大興奮したことだった。あれはいい。あんな青春を送りたかった。友達もいたし部活も楽しかったし彼女もいたし成績も別にそこまで悪くなかったけど、それでも人間関係を大切にしていたとは言い難かった。誰かのために悩み、傷つき、それでもわかり合おうともがくその醜くも女神よりも美しいその姿は、一人間としは胸を打たれないわけがない。そして思うのだ。僕は一体、どうしたいのだろうと。

思えば僕を中途半端な人間だ。文章に起こせばシリアスで難しいことを書くくせに現実世界ではいつも冗談ばかり言って面白いことを常に探し続ける。「人間を精神的に壊してみたい」という社会不適合な欲求があるかと思えば、「弱い人たちを助けたい」というヒーローめいた思いもある。悪にも堕ちれないし善にも慣れない。学んだ知識もどこか中途半端、各作品もどこか中途半端、友達は多いが本当に心から信じ気を許せる友達はどのくらいいるのだろうか。悩んでいる時点で僕はすでに答えを自然と出しているように思えるのだが。

さてそんな中途半端な僕は、どうしたらいいのだろうか。ここで最近、気づいたことがある。物事の境界線が曖昧になる、二項対立が崩れるということが絶対矛盾的自己同一だと思っていた。だがそれは違い、どちらかというとそれはライプニッツの「モナド」に近い考え方だった。万物は一つであり、そしてそれは神という一つの物質を構成する一部に過ぎないと。だがこれは誤りだ。マルクス・ガブリエルはモナドの基本的なスタンスは支持しているものの、「全てを包括する存在など存在し得ない」と一刀両断している。西田幾多郎はさらにその上をいく。絶対矛盾的自己同一とは、どこまでも一般的でどこまで限定的なのだ。つまりどいうことか。僕らはモナドのように究極の「一」に近づくと同時に、ものが一つ一つ独立的である「多」へと進んでいるのだ。簡単な例えが、僕はこの間徒然と書いた懺悔の文だ(詳しくはこの二個前の記事を参照していただきたい)。彼女と僕の距離、その曖昧さを僕は訴えようとした。僕らを包摂する罪が僕に罰を与えると僕は書いた。だがどこまで進んでも、僕は彼女にはなれないし、彼女も僕にはなれない。第一例え僕らが一つの同一な存在であろうと、前提として僕と彼女という別々の存在がいなければ成立し得ない。つまるところ、僕らはどこまでも一つ(一般化)しようとしていて同じくらいどこまでも一つ(個物化)になろうとしているのだ。全体的な一つ、そして個々としての一つ。それは互いを引っ張り合うように同時に発生するのだ。

難しい話をしたいわけではない。ただ中途半端な僕が、これからどうすればいいか、それを様々な知識とか経験とか、そういうものに照らし合わせて答えを得ようとしているのだ。僕はどこまでも一般社会に溶け込まなければならない。だがそれと同時どこまでも「僕」であり続けなければならない。それはどちらかに傾くことはない。ただの社会の歯車と化すことも、自分勝手な暴君になって社会が敵だと勝手に拗ねて唾を吐きかけるも許されない。その危ういバランスの中で、僕は「僕」を探す旅にでる。世界は変わり続ける。価値観も思想も変わり続ける。そうすると過去を解釈する目も、未来を見通す目を変わっていく。過去は変えられないものではない。変わり得るものなのだ。未来は無限にはない。一つしかない道筋に、たくさんの選択肢を見いだすものなのだ。過去が来るべき未来を予想して影響し、未来を思って過去の経験を生かす。相互作用するこの二つは「今」という場所で交わり、円環的な輪を描く。仏教的思想。変わり続けるのは、人と、世界と、その二つの関係性と。僕らはもはやひとりぼっちじゃない、でも僕らはみんなではない。二つの両極点、それを結ぶ線、それを眺めながら、僕らはグラグラと揺れる。揺れて、揺れて、確立しようとして、またグラついて、もがいて、争って...でもだから人は美しい。「人間とはこうである」というルールがないからなのかそれは分からないが、でも、人生とは、客観的に見るととても綺麗で、愛おしいもののように思われるのだ。だから傷つけ、傷つけ、それでも諦めない俺ガイルの主人公やヒロインたちの姿は、胸いっぱいになるのかもしれない。

虚構と現実に区別はない。上妻世海氏は「虚構の実在性」それが全てだと言った。だから本の内容と現実世界にあるその違いは「実在」のそれであると。僕は本を閉じて、部屋を見回す。僕の物語は誰が作ってくれるのだろうか。そんなことを考えながら、僕は眠りについた。だがどうも主人公がシャキッとしないと、物語は進まないらしかった。