真・戦前日本史年表0.262 暫定版

テーマ:
・預言書「偽メトディウス」作成(7世紀末)

※世界最終皇帝&ティブルティーナの巫言&『偽メトディウス』

http://alchemist.flamboyant.jp/

世界最終皇帝とは、ヨーロッパ中世の伝説に登場する、終末論的な英雄である。
 
世界最終皇帝について語っている最も古い資料は、「ティブルティーナの巫言」で、4世紀中頃に出現したという。

ティブルティーナの巫言に関して、「〈世界最終皇帝〉という観念は後代の改竄嵌入とされ、もともとはなかった観念」だとか。しかし、ここではその種の事実関係は問わないことにする。

その「ティブルティーナの巫言」が語るのはおよそ以下のような預言だった。

「それは、ローマが捕われの身となり、暴君たちが貧しき民、罪なき者を苦しめ、罪深き者を保護する〈悲しみの時〉の到来について語っている。

しかしやがて、コンスタンスと呼ばれるギリシアの皇帝があらわれ、その支配の下で帝国の東西領土が統一されるというものである。
 
容姿端麗で顔は輝き、背は高く均整がとれ、威風堂々たる風采をしたコンスタンスが112年間(もしくは120年間)天下を統治する。その間は豊穣の時代で、油、酒、穀物がおびただしく採れ、かつ安価に手に入る。

それはまたキリスト教が最後の勝利をおさめる時代でもある。皇帝は異教徒たちの都市を荒らし、偽わりの神々の神殿を毀つ。また異教徒たちを召喚してキリスト教の洗礼を授け、改宗を拒む異教徒たちを剣によって滅ぼす。その長期にわたる統治の終りにあたっては、ユダヤ人も改宗し、このことの起こるに際しては、聖書が栄光に輝きわたるのである。

22人のゴグとマゴグがばらばらに分身して、海の砂子のようにおびただしい数になるが、皇帝は軍勢を呼び集めて、彼らを皆殺しにする。

任務を果たしおえると、皇帝はエルサレムにおもむきそこで帝冠と帝衣を脱いでゴルゴダの丘に置き、キリスト教国を神の御手にゆだねる。

ローマ帝国は、この黄金時代と同時にひとつの終止符を打つことになるが、すべてのものの終りに先立って、短いながら試練の時が残されている。

なぜなら、このとき、反キリストがあらわれて、エルサレムの神殿において天下を治め、奇跡を行なって多くの人々を欺き、欺きに乗せられない人々を迫害するからである。

主は、選ばれた人々のためにこの期間を短縮し、反キリストを滅ぼすために大天使ミカエルを派遣する。かくして遂に、主の再臨の実現する道が開かれるのである。」

世界最終皇帝に関する似たような伝説は、七世紀終りに東ローマ帝国で書かれた『偽メトディウス』でも語られている。「ティブルティーナの巫言」ではなく、この書こそが世界最終皇帝について語った最古の書だという説もある。

その内容は以下のようなものである。

「その冒頭部分はエデンの楽園の始めからアレクサンドロスの時代に至る世界歴史の概観に始まっているが、それから一挙に著者自身の時代に下ってくる。

やがて到来することの預言という体裁をとり、かつてギデオンに敗北して砂漠の国へ追いはらわれたイシマエル部族が、ふたたび来寇してエジプトからエチオピア、ユーフラテス河からインドへとまたがる地域を荒らしまわるさまを描いている。

これらの遊牧民はむろんイスラムの攻撃軍に味方し、キリスト教徒たちはしばらくの間彼らに服従してその罪を罰せられる。イシマエル人はキリスト教の司祭たちを殺し、聖地を汚し、力や策略をもって多くのキリスト教徒をそそのかして真の信仰から離脱させ、またキリスト教徒の国を次々にかすめ盗り、キリスト教徒は永遠にわれらの手中に落ちたと豪語する。
 
しかし――ここで初めてこの預言は未来世界に一歩を踏み入れることになるが――状況がさらに一段と悪化したそのとき、人々が長い間亡きものと思っていた一人の強き皇帝が、眠りをはらい除けて憤然と立ち上がる。

彼はイシマエル人を打ち破り、火と剣をもって彼らの国を破壊し、かつて彼らがキリスト教徒の首にかけた軛(くびき)の百倍も重いものを彼らの上にかけ、また主を拒んだキリスト教徒たちにも怒りをぶちまける。

それに続いて平和と歓喜の時代が訪れ、その間、この偉大な支配者の下で統一を達成した帝国は未曽有の繁栄をとげる。

しかしやがてゴグとマゴグの大軍が殺到し、全世界に恐怖と恐慌をもたらすので、神は天の軍勢の指揮者を派遣し、またたく間に討ち滅ぼさせる。

皇帝はエルサレムにおもむき、そこで反キリストの出現を待つ。その恐るべき事態が発生すると、皇帝はゴルゴダの丘の上の十字架に帝冠を架ける。するとその十字架は天に向かって舞いあがる。かくて皇帝は戦死し、反キリストが天下を統治しはじめる。

しかし間もなく、十字架が人の子(キリスト)のしるしとして再び天に現われ、キリストが自ら雲に乗り、権力と栄光につつまれながら天下って、その口の息をもって反キリストを殺し、最後の審判を行うのである。」

これらの伝説からうかがえるのは、まさに小型メシアのような世界最終皇帝の姿である。なぜ「小型」なのかといえば、世界最終皇帝によって平安と繁栄が成就されることは確かだが、それは一時的なものであり、その後に、アンチキリストの支配する邪悪な時代が来るとされているからである。

つまり、世界最終皇帝がいかに待望された存在だったとしても、アンチキリストにはかなわないのであり、その力の大きさにおいて、本物のメシアとは全く異なるものだからである。
 
だが、たとえそうだったとしても、こうして歴史の中に登場した世界最終皇帝の伝説は、中世ヨーロッパの人々に広く受け入れられることになった。
 
そして、フランスにおける《第二のシャルル・マーニュ》、ドイツにおける《復活するフリードリヒ二世》のような新たな世界最終皇帝の伝説が誕生し、人々に熱狂的に語られることになったのである。

・和同開珎(わどうかいちん)発行(708年)

※日本で鋳造・発行された銭貨。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の第1番目にあたる。

直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。

律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。

708年5月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。

和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同は出土数が限られているが、新和同は出土数が多い。

当時の日本はまだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。

発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。

発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、711年には蓄銭叙位令が発布された。

これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年に廃止された。

政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。

これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。

760年には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後、779年に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。

・平城京遷都(710年)

※平城京は、唐の都「長安」や北魏洛陽城等を模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。



藤原京から平城京への遷都は707年に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。740年、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都とも呼ばれた。

桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由の一つに、平城京の地理的条件と用水インフラの不便さがあった。平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。

平城京はシルクロードの終着点でもあることから、国際的な都市であった。京内には唐や新羅、遠くはインド周辺の人々までみられたという。その時代をうかがわせるのが東大寺正倉院の宝物などである。



(上)平城宮の正門である朱雀門(復元)



(上)シルクロード



(上)古墳時代にペルシャからシルクロードを通じて日本に渡ったカットグラス「白瑠璃碗」

・「稲荷神社」創建(708 - 715年、もしくは711年)

※伏見稲荷大社は京都市伏見区にある神社。旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。現存する旧社家は大西家。



(上)楼門



(上)千本鳥居

※祭神は以下の5柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。

主祭神

宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)

配神

佐田彦大神
大宮能売大神
田中大神
四大神 (しのおおかみ)

稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益があるとされる。

※社家

社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。

律令制の崩壊とともに、神職が自分の子にその職を継がせる例が多くなった。1871年の太政官布告により神職の世襲は、色々と弊害があるとして廃止された。しかし、第二次世界大戦後、神社や神職が政府の管理から離れたことにより、かつて社家であった家(旧社家)や、神職家系にない旧士族などが明治以降に国家神道制下で新規に神官となった者の子孫(維新後新社家)や、戦後に旧皇族や旧華族、それに神職家系にない者が養成機関などを卒業して神職資格を得て神職となった者の子孫(戦後新社家)、神職子弟のうち次三男など家督相続を行わない者が、他の別の神社の後継者になる(新分社家)など、新たに神職を世襲する例が増加した。通常では含めないこれらの家系も、現在では場合によっては社家の範疇に含めることもある。

歴史的に著名な社家には以下のようなものがある。

伊勢神宮

祭主 - 藤波家
宮司 - 河辺氏
内宮祀職 - 荒木田氏
外宮祀職 - 度会氏

籠神社 - 海部氏
猿田彦神社 - 宇治土公氏
鹿島神宮・香取神宮・春日大社 -- 中臣氏・大中臣氏
宇佐神宮 - 辛嶋氏・大神氏・宇佐氏(宇佐国造)・田部氏・到津氏・宮成氏
伏見稲荷大社 - 大西氏
住吉大社 - 津守氏
志賀海神社 - 阿曇氏
宗像大社 - 宗像氏
大山祇神社 - 大祝氏
出雲大社 - 千家氏・北島氏(出雲国造)
日御碕神社 - 小野氏
物部神社 - 金子氏(石見国造)
新田神社 - 執印氏・権執印氏・大検校氏・千儀氏
彌彦神社 - 高橋氏
富士山本宮浅間大社 - 富士氏
吉田神社 - 卜部氏(吉田氏)
賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社) - 賀茂氏
日吉大社 - 樹下氏・生源寺氏
熱田神宮 - 千秋氏
諏訪大社 - 諏訪氏・金刺氏・守矢氏
日前神宮・國懸神宮 - 紀氏(紀伊国造)
英彦山神宮 - 高千穂氏
太宰府天満宮 - 西高辻氏
阿蘇神社 - 阿蘇氏(阿蘇国造)

※稲荷神

稲荷神は、日本における神の1つ。稲荷大明神ともいい、お稲荷様・お稲荷さんとも呼ばれる。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神。

稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社となっている。朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。「稲荷」と表記するのが基本だが、「稲生」や「稲成」とする神社も存在する。

稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる。

神仏分離の下、神道の稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主祭神とする。

総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として(五穀を司る宇迦之御魂神・倉稲魂命を参照)、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。

日本の神社の内で稲荷神社は、2970社(主祭神として)、3万2千社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている。

稲荷神社は日本全国にあるが、その中でも東日本に多く信仰されている。

伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。

稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。

諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立った。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようだ。

『山城国風土記』逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話を載せる。秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐの はたの きみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。

都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。

東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉、または、羅刹の一種で、中世には霊狐と同一の存在とみなされた。このことにより祟り神としての側面も強くなったといわれる。

稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合した。中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神とみなされるようになり、勧請の方法が容易な申請方式となったため、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになった。江戸時代には芝居の神としても敬われるようになり、芝居小屋の楽屋裏には必ず稲荷明神の祭壇が設けられるようになった。

明治の神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神話に登場する神を祀る神社になったが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になった。

稲荷寿司は「お稲荷さん」と呼ぶ事もあり、稲荷神社の稲荷神(稲生り、つまりお米の出来を司る神様)から、俵を模した俵型の寿司が稲荷寿司となった(三角形の稲荷寿司がキツネの耳を模しているという説もあるが、キツネは肉食であり油揚げを好むわけではなく、稲荷神社のキツネと関連させた後付ともされる)。

狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅4年(711年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、「三狐神」は(さぐじ)と読む。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。 

江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。

稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。

※伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。秦氏にゆかり深い神社である。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の『山城国風土記』逸文には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下のように記されている。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。

『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。

社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)がある。この神社は荷田春満の旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社の楼門内にあるが摂末社ではなく独立した神社であり、1903年に府社に列格されており、規模の割に高い社格となっている。学問の神として信仰されている。

応仁の乱の戦渦が去った15世紀後半には、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたため、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理していた。しかし、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって1868年(慶応4年)に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。

明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となったが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となって、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。

※稲荷神社と「ヨハネの黙示録」

http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu2/05inari01.html

稲荷神社は、「お稲荷さん」、「お稲荷様」の名で親しまれ、赤い鳥居と狐が特徴的な神社です。全神社の中でも最大の社数を誇る神社であり、日本人であるならば稲荷神社を目にしたことのない人というのはいないでしょう。

稲荷神社の総本社は京都の伏見稲荷神社で、主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。

伏見稲荷神社の鎮座は和銅4年(711年)で、創建したのは秦伊侶巨(はたのいろこ)。広隆寺や松尾大社などと同じく秦(はた)氏が関連しています。

主祭神である宇迦之御魂神の「ウカ」は穀物・食物を表し、穀物の神とされています。

この宇迦之御魂神は次の図のように、鎌を持ち、稲束を担った姿で表現されます。



(上)稲荷曼荼羅図(14世紀)

ご覧の通り、穀物の神らしい姿で描かれていますが、実は、この姿は、「ヨハネの黙示録」にある再臨のキリストを描いたものなのです。

「ヨハネの黙示録」では、次のようにキリストの姿が描かれています。


『それらの燭台の真ん中には、足まで垂れた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人のような方が見えた。
 
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また、雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
 
その足は、炉で精錬されて光り輝く真鍮のようであり、その声は大水の音であった。
 
また、右手に7つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。』(1章13-16節)


『また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲には人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。
 
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて刈り取って下さい。地の穀物は実ったので、刈り入れる時が来ましたから。」
 
そこで、雲に乗っておられる方が、地に鎌を入れると地は刈り取られた。』(14章14-16節)


『また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもって裁き、戦いをされる。
 
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身の他は誰も知らない名が書かれていた。
 
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
 
天にある軍勢は真っ白な、清い麻布を着て、白い馬に乗って彼に付き従った。』(19章11-14節)


図の宇迦之御魂神の姿が、「ヨハネの黙示録」の記述と恐ろしく一致していることが分かるでしょう。
 
なお、図に描かれた宇迦之御魂神の衣は、上に着ているものだけ白で、後は全て赤です(靴は除く)。明記はされていませんが、再臨のキリストの着ている衣は、血に染まる前は天にある軍勢と同じく白であったと思われます。白は清浄さ、貞潔を表す色です。

なお、胸部に描かれているのは、三つの宝珠ですが、「玉」=「魂」で三つの魂、つまり、「父と子と聖霊」の三位一体を表しています。
 
以上、上記図柄の宇迦之御魂うかのみたまの神は「ヨハネの黙示録」に描かれた再臨のキリスト、より具体的には、天使に「鎌を入れて刈り取って下さい。地の穀物は実ったので、刈り入れる時が来ましたから。」と言われ、良い実をならせた人々を刈り入れた後の状況を描いたものなのです。

さらに、図の他の箇所も解釈してみましょう。

まず、一番下の2匹の狐です。
 
左の狐がくわえているのは巻物、右のは鍵です。

これは、左の巻物が封印を施された巻物であり、それを読み解くには鍵が必要であることを示しています。
 
封印を施された巻物とは、もちろん、「ヨハネの黙示録」のこと。「ヨハネの黙示録」には次のような記述があります。


『また、私は、御座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書き記され、7つの封印で封じられていた。』(5章1節)
 

正確には、「ヨハネの黙示録」自体は、この巻物の封印が解かれることによって、ヨハネが視た内容を記述したものですが、「ヨハネの黙示録」自体にも封印が施されており、その文章を単に読んだだけでは内容が正確に把握できないように仕組まれています。

また、右の鍵は、「ダビデの鍵」で、封印を解くために必要とされる知恵の象徴です。


『聖なる方、真実なる方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと誰も閉じる者がなく、彼が閉じると誰も開く者がない、その方がこう言われる。』(3章7節)
 

「ダビデの鍵を持っている方」とはキリストのことです。

次に、真ん中の二神の解釈です。

左は大黒様に似た姿で福の神、右は様々な武具を持った戦神が描かれています。

これは、再臨するキリストの二面性を表しています。より具体的には、良い実をならせた者と悪い実をならせた者への対応の違いです。

左側には米俵が描かれています。一番上では刈り入れが行われた直後の姿が描かれていましたから、米俵で、二段目がさらに、その後の出来事であることを示しています。

米俵に入っている米は、キリストによって刈り取られた、良い実をならせた人たちです。さらに、その上に神が乗っていますから、この、良い実をならせた人たちは、キリストの支配下にあることを表しています。

「ヨハネの黙示録」には次のように記載されています。


『彼らは、大きな艱難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。
 
だから、彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
 
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
 
何故なら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださるのです。』(7章14-17節)

 
『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、12種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
 
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ視る。また、彼らの額には神の名がついている。
 
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光も知らない。彼らは永遠に王である。』(22章1-4節)
 

つまり、左側の大黒様のような図柄は、良い実をならせた者たちがキリストの統治下に入ることによって与えられ、享受する様々な幸福が描かれているのです。手に持っている打出の小槌と袋は、その様々な幸福を象徴しています。

そして、良い実をならせた者たちには、キリストにより幸福が与えられますが、一方、良い実をならせることが出来なかった者たちは、この幸福は与えられません。


『良い実をならせることが出来なかった者たちは、キリストの代わりに天使が刈り入れ、神の激しい怒りの大きな酒ふねに入れられて踏まれることになります。』(14章17-20節)

 
また、神に反する獣とその信従者たちは、キリストの軍勢に戦いを挑みますが、敗北して火の池に投げ込まれたりして殺されます。


『また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
 
すると、獣は捕らえられた。また、獣前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあの偽預言者も、彼と一緒に捕らえられた。そして、この二人は、硫黄の燃えている火の池に生きたままで投げ込まれた。
 
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、全ての鳥が彼らの肉を飽きるほどに食べた。』(19章19-21節)


上の右側の図柄は、この、獣の軍勢と戦って勝利し、神罰を与える戦神としての再臨のキリストを描いているのです。

以上、上の図柄は、「ヨハネの黙示録」の再臨のキリストを表現したものに他ならないのであり、稲荷神社の主祭神である宇迦之御魂神の正体は再臨のキリストなのです。

・葛井寺(かどいのでら、後の法輪寺)創建(712年)

・空海の弟子にあたる道昌が、葛井寺(かどいのでら)に虚空蔵菩薩像を安置(829年)

※法輪寺(ほうりんじ)は、京都市西京区にある仏教寺院。山号は智福山。宗派は真言宗五智教団に属する。虚空蔵法輪寺や嵯峨虚空蔵と通称される。

名勝嵐山の中腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩が、「嵯峨の虚空蔵さん」として親しまれている。奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称される。古くは、『今昔物語集』・『枕草子』・『平家物語』などにその名が見え、知恵、芸事の上達、また丑寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。また、十三詣りや針供養・うるし祖神の寺としても著名である。さらに、境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている。

寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺として建立したとされる。その後、天長6年(829年)、空海の弟子にあたる道昌が、虚空蔵菩薩像を安置し、貞観10年(868年)、寺号を法輪寺と称したという。

室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、幕末、元治元年(1864年)の禁門の変により、再度罹災している。

行事

京都・嵐山花灯路 - 毎年12月中旬。

針供養 - 2月8日。大きな蒟蒻に、諸々の色糸をつけた大針を刺して供養し、針仕事の技術上達を祈願する。平安時代、清和天皇によって針供養の堂が当寺に建立されたことが由緒とされる。

芸能上達祈願祭 - 3月10日。茂山社中による奉納狂言が行われる。

十三詣り - 3月13日~5月13日(4月13日の前後1ヶ月)及び10月~11月、本来は旧暦3月13日(新暦の4月13日)。「知恵詣り」とも呼ぶ。数え年で13歳になった男女が、健康を願い参詣する。また、お詣りが済んだ後の帰路、渡月橋を渡るまで、後ろを振り返ると知恵が本堂に帰ってしまうという言い伝えがある。

重陽の節句 - 9月9日。陽数の極限の数字である「九」が重なるという意味で重陽という。菊酒を飲み、厄を祓い長寿を願って、「菊の被綿(きせわた)」という、前夜に菊に被せた綿に降りた露で、身体を拭くと、長寿になると伝えられる。また、重陽の日に摘んだ菊の花を乾燥させ枕に詰めた「菊枕」は、菊の香りで長寿になると伝えられている。

針供養 - 12月8日。全国から集まった廃針の法要を営む。読経後、古式装束の織姫が舞って、諸芸上達の福を授ける。

※京都の虚空蔵法輪寺の針供養は、皇室の針を供養するためにはじめられたといわれ、平安時代から続いているそうです。現在も、12月8日の針供養では、皇室からお預かりした針を供養しています。

※針=鋭いもの=智恵(イシス=ソプデト=聖母マリア=ソピアー=ルシファー)の象徴。

・古事記(712年)
・元明天皇、「畿内七道諸国郡郷着好字」の勅令(好字二字化令)(713年)

※諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で書くようにという命令である。

それまで国名や、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのが好字二字令である。

さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。

国名は『飛鳥浄御原律令(689)』前後に 二字化されていた史実も知られる。

好字二字令では、3文字の地名はともかくとして1字の地名も無理やり2字になった。これは利便性の向上もさることながら、当時日本から見ると先進国であった唐(中国)にならうという意味があった。中国の地名の多くは「洛陽」や「長安」など良い意味の2字の名称が用いられていたからである。

中には漢字の当て方に明らかに無理のあるものもあって読みづらいものも散見される。当てた漢字の音に引きずられて読みが変わった例も多い。(例:車(くるま)→群馬(ぐんま)など)

生まれた地名

旧国名
倭→大倭(大和)(現奈良県)
下毛野→下野(現栃木県)
上毛野→上野(現群馬県)
泉→和泉(現大阪府南西部)
無邪志、胸刺、牟射志など→武蔵(現埼玉県、東京都、神奈川県東部)
津→摂津(現大阪府北中部、兵庫県南東部)
近淡海→近江(現滋賀県)
遠淡海→遠江(現静岡県西部)
針間→播磨(現兵庫県南西部)
沖→隠岐(現島根県隠岐諸島)
三野→美濃(現岐阜県南部)
木→紀伊(現和歌山県)
火→肥前、肥後(肥前は現佐賀県、長崎県。肥後は熊本県)
多遅麻など→但馬(現兵庫県北部)
粟→阿波(現徳島県)

など

郡名
車→群馬(現群馬県)
小丹生→遠敷(現福井県)
橘→橘樹(現神奈川県)
安八麻→安八(現岐阜県)
佐良良→讃良(現大阪府)
飛鳥戸→安宿(現大阪府)

など

郷名
林→拝志、拝師など(各所)
中→那珂、那賀など(各所)
北→喜多など(各所)
上→賀美など(各所)
機織部→服部(各所)
鳥取部→鳥取(各所)
衣、許呂母など→挙母(現愛知県)

など

その他
明日香→飛鳥(現奈良県)
中山→名香山(現在の妙高山。「みょうこう」の音から転訛した)

など

現在

現在も好字二字令により生まれた地名は多く残っている。ただ、あまりにも読みづらいため元に戻してしまった例も少なからずあるようだ。また、市町村合併などにより消失してしまった地名も多い。

苗字は地名から取られることが多かったため、苗字に2文字のものが多い要因の一つとなっている。

・中央官命(713年)により「備後国風土記」編纂(71?年)

※「備後国風土記」の蘇民説話

http://museum.umic.jp/somin/sominshou/s_sominshou02.html

「備後国風土記」は、鎌倉時代末期の『釈日本記』に引用記載されていることから逸文として伝存している。風土記は、和銅6年(713)中央官命により作成された報告公文書で、いつ編述が完了したかは明らかでないが、早くても官命後数年を要したと思われる。

この備後国(現広島県東部)風土記逸文に、わが国で最も古い蘇民説話が見られ、原文を要約するとおよそ次のようになる。

昔、武塔神が求婚旅行の途中宿を求めたが、裕福な弟将来はそれを拒み、貧しい兄蘇民将来は一夜の宿を提供した。後に再びそこを通った武塔神は兄蘇民将来とその娘らの腰に茅の輪をつけさせ、弟将来たちは宿を貸さなかったという理由で皆殺しにしてしまった。武塔神は「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去った。

武塔神(むとうのかみ)は、外国から渡来した武答天神王か、武に勝れた神を意味する名であるかは明確ではないが、「吾は速須佐雄の神なり」と、伝承の過程でスサノオノミコトに武塔神が習合されている。ここでは後にふれる牛頭天王(ごずてんのう)と武塔神は習合されていない。ちなみにスサノオノミコトを祗園社の牛頭天王と習合するのは平安時代以降である。

悪い病気が流行したら除厄の呪文として「蘇民将来の子孫」と唱えるように武塔神が言ったが、この呪文は蘇民将来符に「蘇民・将来・子孫・人也」と書かれている。

仮説:ムトウ(MTW)=マタイ(MTW)

※マタイの福音書

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。

— 新改訳聖書 マタイの福音書 25章31-46節

・武蔵国(現・埼玉県)に、「高麗郡」(こまぐん)設置(716年)

※716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系遺民1799人を武蔵国の一部に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初である。

設置時の郡域は現在の日高市と飯能市の一部であり、律令制下では小郡に分類されていた。『倭名類聚抄』には高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷(現在の飯能市北東部)の二郷の名が記されている。郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられている。

中世以降郡域が東側の入間郡・比企郡方面に拡大し、江戸時代には鶴ヶ島市・日高市全域および川越市・飯能市・狭山市・入間市のそれぞれ一部を含む地域となり、入間川が入間郡との境界となっていた。

廃藩置県後に行われた全国的な府県統合に伴い入間県→熊谷県→埼玉県と所属を変え、1878年7月22日、郡区町村編制法制定に伴い、行政区域としての高麗郡が誕生した。高麗郡役所は郡の中心地であった飯能町ではなく、入間郡と共同で川越町に置かれていた。1896年3月29日、郡制の施行のため入間郡に編入されて消滅した。

・日本書紀(720年)

※天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。

『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。

本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。

第二の一書では天津神となっており、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。

平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。

しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。

葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。

・ハザール王国とアラブ帝国の間で戦争、「第2次アラブ戦争」(721年~737年)

※「第2次アラブ戦争」は、ジェラーフ率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで始まり、737年までの16年間続いた。

「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して、アルデビールを攻略し、アラブ軍を撃滅。しかし、新たにマルワーン率いるアラブ軍が遠征してくると、ハザール軍は2つの峠から奇襲をかけられ、ボルガ川まで退却。最終的に、アラブの将軍マルワーンに講和を求めることを余儀なくされたのであった。

この「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。

そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍となり、これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。
AD