真・戦後日本史年表0.1 暫定版

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・「オデッサ」設立(1946年~1948年頃)

※オデッサ(ODESSA)は、「Organisation der ehemaligen SS-Angehörigen」(元ナチス親衛隊隊員のための組織、Organisation for ex-SS Members)の略称である。

ドイツの元ナチス党員の犯罪を追求するサイモン・ヴィーゼンタールによれば、この組織は1946年にナチス親衛隊のメンバーをはじめとする、旧ナチス党員の逃亡支援のために結成されたとされる。

しかし第2ドイツテレビ(ZDF)が行った元親衛隊隊員へのインタビュー番組を含む他の資料は、ウィーゼンタールがいう「単一の世界的組織」としてオデッサが存在したことはなく、むしろ複数の組織が、元SS隊員をはじめとする元ナチス党員の国外逃亡を助けたことを示唆している。

元SS隊員を助けた組織には、公的団体も非公的組織もあり、バチカンを筆頭とするカトリック教会やアメリカのCIA、チリやアルゼンチンなどの南アメリカ政府の機関、ロッジP2のような秘密組織が含まれていたと指摘されている。他にSS同志会やルデル・クラブなど、旧ドイツ軍人が旧ドイツ軍人およびナチス戦犯者の支援のために創設した組織もある。

海外の逃亡先として有名な国

南アメリカ

ボリビア
アルゼンチン
パラグアイ
ブラジル
チリ

ヨーロッパ

スイス(経由地)
バチカン(経由地)
イタリア(経由地)
スペイン(経由地)
ポルトガル(経由地)

中東

シリア
エジプト

アフリカ

アルジェリア
モロッコ

※ナチ残党の地下組織「オデッサ」

http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc400.html#04

ナチ残党は、戦後ほどなく、戦争犯罪人に指名された親衛隊の本隊員の逃亡を援ける地下組織を作った。暗号名で「オデッサ」とか「蜘蛛」とよばれる秘密組織である。

その他にも、「帝国」「地下救助」「岩の門」などが次々に誕生した。いずれも、世界中にナチスの入植地を設け、またSSの推定20万人におよぶ外国メンバーをも部分的に使って末端組織作りを目指すものだった。スイス国内だけでも2万戸の隠れ家があった、と伝えられている。

SS戦犯容疑者の相互援助組織ともいうべき、これらグループの全貌は、謎に包まれている。連合軍がその存在に気づいたのは、かなり後のことで、組織の正体を暴くことはできなかった。

しかしこれらの逃亡補助機関は、作家フレデリック・フォーサイスが『オデッサ・ファイル』の中で描いたような得体の知れない巨大組織ではなかったようだ。実際は、地下組織と呼べるほどの力はなく、ごく小規模の逃亡補助機関だったとの見方もある。

これらの組織の中でも最大のグループは「オデッサ」である。オデッサ(ODESSA)とは「親衛隊の組織」の略称であり、設立されたのは1947年のことで、戦時中ではない。

独自のナチ戦犯追及機関を持つユダヤ人サイモン・ヴィーゼンタールも、この「オデッサ」の全貌を暴くことはできなかった。しかし、「オデッサ」がドイツからの逃亡者をスイスやオーストリアに引き入れ、必要とあればイタリアに逃がしていること、そしてスペインや南米とのつながりを持っていること、までは発見できた。

サイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「『オデッサ』は、十分に能率的ネットワークとして組織されている。40マイルごとに中継拠点が設けられ、そこには、近くの2つの中継拠点しか知らない、3人から5人ほどの人間が駐在している。彼らは、逃亡者を受け取る中継拠点と、次に引き渡す中継拠点しか知らないわけである。中継拠点は、オーストリア-ドイツ間の国境全体、特に上部オーストリアのオスターミーティング、ザルツブルク地方のツェル・アム・ゼー、チロルのインスブルックにほど近いイグルスなどに設けられている。オーストリアとスイスのどちらにも近いリンダウ市に、『オデッサ』は貿易商社を設立しており、カイロとダマスカスに支店を設けている。」

「しばらく後に、私は次のことを発見した。それは、『オデッサ』が、オーストリア-イタリア間の、いわゆる修道院ルートを開発していたことである。ローマ教会の僧、とりわけフランシスコ派の修道僧たちは、逃亡者が、僧院の長い“安全な”ルートを渡って逃げるのを助けている。疑いなく、カトリックの僧たちは、キリスト教の哀れみの感情に駆られている。」

「『オデッサ』は、国境地帯で暗躍するあらゆる密輸業者と結託している。また、ヨーロッパ各国の首都にあるエジプト、スペイン、シリアの大使館、それに南米のいくつかの大使館と密接なつながりを持っている。さらに、スペインのファランヘ党の“社会救済”組織のドイツ課とも、彼らは連携している。この組織は、“旅行者”をスペインに運んだり、南米に送り込んだりしている。別の“旅行者”はジェノヴァに連れて来られ、南米行きの船に乗せられたりもしている。」

「オデッサ」の謎を追及するサイモン・ヴィーゼンタールは、のちに「オデッサ」の責任者はシリア政府発行のパスポートを所持するハダド・セイドと名乗る男で、この男の正体は、親衛隊のフランツ・ロステロであることを突き止めている。

・韓国で(旧)「世界日報(セゲ・イルボ)」発行(1946年~1948年)
・日本で(旧)「世界日報」 発行(1946年~1948年)

※韓国の(旧)世界日報は1948年に廃刊。日本の(旧)「世界日報」は、後に「世界経済新聞」(1948年10月1日 - 1950年2月28日)、「夕刊世界経済新聞」(1950年3月1日 - 12月31日)と改めた後、1951年に「産業経済新聞」((現)「産経新聞」)に紙面統合されて終刊。題字と地紋は(現)「世界日報」と同一の物を使用。

・鹿児島県大島郡(奄美群島やトカラ列島)を分離し軍政当局下に置く(1946年2月)・通化事件(1946年2月3日)
・新円切り替え(1946年2月21日)

※新円切替は1946年2月16日夕刻に幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令をはじめとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称である。

第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから現金確保の為の預金引き出し集中の発生、また一方で政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり激しいインフレが発生した対策が背景としてある。

この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日の17日より預金封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、1946年3月3日付けで旧円の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を制限させる等の金融制限策を実施した。

封鎖預金と呼ばれ、第一封鎖預金と第二封鎖預金に分けられ、引き出しが完全にできなくなるのではなく、預金者による引き出し通貨量の制限や給与の一部が強制的に預金させられるなど、利用条件が設けられた。

封鎖預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円であった。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円であり、それを元に現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が約12万~15万、世帯員が1人各4万弱まで引き出せる。学校の授業料は旧円での支払いが認められていたが、生活費には新円を使うこととなった。最終的に第二封鎖預金は切り捨てられる形となった。

これらの措置には、インフレ抑制とともに、財産税法制定・施行のための資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。

このとき従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのがA百円券をはじめとするA号券、いわゆる新円である。

インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は国債等債券同様にほぼ無価値になった。

硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。そのため小銭が貯め込まれた。また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した。

占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できないため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた。

また新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった。

※第二次大戦直後のインフレ進行を阻止するために、1946年2月16日の夕刻、政府は突然、「金融緊急措置令」および「日本銀行券預入令」を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施しました。
これが、いわゆる「新円切り替え」と呼ばれているものです。

また、このときに総国民の資産調査が行われ、10万円を超える資産に対し25~90%の高額な財産税がかけられました。

さらに、郵便貯金は10年間の払い戻し拒否が実施され、払い戻せるようになったときには、貯金は一律3分の1をカットされたのです。10年間で物価は300倍に上がりましたので、ほとんどの人たちの貯金は実質的には900分の2しか戻ってこなかったことになります。

※「ブログ金貸しは、国家を相手に金を貸す」様より転載



(戦後に行われた預金封鎖と新円切替)

第二次世界大戦の敗戦で積み上がった莫大な借金。その額は当時の国民所得の267%にも膨らんでいたとのこと。更に、戦時補償債務や賠償問題が、その上に積み上がっていました。

いったいこの借金を、どうやって返したのでしょうか?

■終戦直後の財務状況はどうだったのか?



●日本の対外債務はデフォルト状態

昭和初期において、わが国の国債の約4分の1は外国債(利率は内国債よりかなり高め)が占めていた時期もあったが、戦時中の1942(昭和17)年から外国債の利払いは停止された。わが国は対外デフォルト(債務不履行)状態に陥り、その後1952年まで継続した。

●では、国内債務はどの程度あったのか?

1944年度末の政府債務残高は対国民所得費で267%に到達。加えて戦時補償債務や賠償問題が重なり、政府債務の確定不可能。内国債が国債残高の99%を占め、その殆どを日銀と預金部(政府)が引き受ける状況。

●生活はどうだったのか?

卸売物価指数は、前年比433%等、激しいインフレ。

戦争の為に政府が民間から物資・労働力を調達すると、民間に大量のお金が流れ、それがインフレを引き起こします。そこでインフレを防ぐために、政府にお金が戻ってきて通貨流通量が増えないようにする政策が、国民に国債を買わせると言う物でした。

終戦によってこの政策が取れなくなると、国民としては苦しい生活を何とかするために、一斉に貯蓄を引き出そうとしますから、極端に通貨流通量が増えることになります。こうして戦後の樹激しいインフレが起きたわけです。

この戦後の状況は、インフレが起こるのに必要な3つの条件にあてはまります。

1.高い消費欠乏があること
2.お金がふんだんにあること(マネーの余剰)
3.モノの供給が足りないこと(生産力の不足)

では、このような状況の中で借金をどうやって返したのでしょうか?

■財産税による内国債の償還

政府は、国民からの「収奪」では無く「財産税」の名目で償還資金を集めます。



「金融緊急措置令」→預金封鎖
「日本銀行券預入令」→新円切り替え
「臨時財産調査令」→財産調査  政府は、この3つを同時に行った。

●財産税を主たる原資とした可能な限りの内国債の償還

順番としては

一番先に(1946年2月)預金封鎖および新円切り替え

いわば空前絶後の大規模課税として、動産、不動産、現預金等を対象に、高率の「財産税」(税率は25~90%)が課税された(=「取るものは取る」)。それを主な原資に、内国債の可能な限りの償還が行われ、内国債の債務不履行そのものの事態は回避された(=「返すものは返す」)。

貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであった。

国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われた。

預金封鎖・新円切り替えを先行させたのは、財産税課税のための調査の時間をかせぎつつ、課税資産を国が先に差し押さえたとみることができよう。

ここでのポイントは、一番初めに「預金封鎖」と「新円切り替え」を強行したことです。

預金封鎖により、国民は銀行から金融資産引き出せなくなります。

旧円→新円切り替えにより、混乱をある程度押さえ、国民は隠し持っているタンス預金等のお金まで、全て出さざるをえなくなります。

また預金封鎖と財産調査により、各国民が持っている資産を集計・計算し、「財産税」として誰からどれだけ取るかの計算をする時間を作りました。

そして全ての準備を整えて、その年の11月に「財産税法公布」。
国民から「収奪」では無く「税」として償還資金を集めます。

●財産税の詳細

では、財産税の中身は、どのようなものだったのでしょうか?



不動産関係の小計が57,228(百万円)<金融関係の小計が60,314(百万円)。

金融関係の割合が多いことが分かります。また合計値は、当時の一般会計予算額に匹敵します。

税率は、最低25%から最高で90%まで、貧富の差を問わず、全国民から「税」として吸い上げました。

●国内債務不履行を事実上強行

戦時中に国内企業や国民が支援した戦時補償債務はどうなったのでしょうか?

1946年10月19日には、「戦時補償特別措置法」が公布
わが国の政府として、内国債の債務不履行は回避したものの、国内企業や国民に対して戦時中に約束した補償債務は履行しない、という形で部分的ながら国内債務不履行を事実上強行した。

・戦時補償債務は踏み倒し。

●民間金融機関等の経営再建・再編に向けての債務切り捨て

政府の戦時債務の不履行や、旧植民地・占領地における対外投資債権請求権の放棄等により、企業、ひいては民間金融機関の資産も傷み債務超過となった。

10月19日には、「金融機関再建整備法」および「企業再建整備法」も公布。

民間金融機関等の経営再建・再編に向けての債務切り捨ての原資として第二封鎖預金が充当。

債務超過状態を解消するために、本来であれば国が国債を発行してでも調達すべき、民間金融機関に投入する公的資金を、国民の預金の切り捨てで賄った。

・預金封鎖した国民の金で、民間金融機関等の救済

■まとめ

・当時の国債の殆どを、日銀と政府預金部が引き受けていた。
・それを、国民の財産を「収奪」では無く「税」として短期間で寄せ集め、償還した。
・預金封鎖と新円発行・切り替えは、主に「財産税」を確実に集めるために行われた。
・戦時中の国内企業・国民の戦時補償債務は、踏み倒された。
・民間金融機関等の救済のため、新国債では無く国民の財産税の金が使われた。

・「創価教育学会」を「創価学会」に改称し、組織整備を始める(1946年3月)