【ルドルフ・フォン・神谷】制限なき権力の先にあるもの | 疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う

【ルドルフ・フォン・神谷】制限なき権力の先にあるもの













参政党をほめちぎる田母神。自称愛国者達がいかに醜悪な連中か、よくわかる。


参政党の目指す憲法は、ありもしない“主権”(それが、国民主権だろうが国家主権だろうが同様)論で、国家(権力者)の支配を正当化し、他人に、義務という名の命令を強制するため、国民主権論による弊害、つまり、衆愚政治をはるかに上回る大惨事を引き起こす。何故なら、参政党の憲法草案においても、権力者を抑止するための法的仕組み、手続き的保障が一切ない。現日本国憲法よりはるかに酷い。なにせ、国民主権論(私は国民主権論にも懐疑的だが)すら否定しているため、権力に足枷がない。狂信的な国粋主義集団参政党の権力者(党)達は、その権力行使において無謬と前提されており、間違うことを全く想定していない。独善からくる完全な自惚れ、想像力の欠落。例えばアメリカ合衆国憲法では、規律ある民兵、武装する市民が、国家権力の暴走を抑止する仕組みの一つだった。


規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携 行する権利は、侵してはならない。 平時においては、所有者の承諾なしに、何人の家屋にも兵士を宿営させてはならない。 戦時においても、法律の定める方法による場合を除き、同様とする。


参政党の憲法草案には、言うまでもなくこのような規定、言うなれば、市民が自らの自由を守るための抵抗権の規定、制度的保障が一切ない。パターナリズムどころの話ではない。現日本国憲法ですら、四権分立は存在していないのに、参政党の憲法草案では、さらなる権力の集権化による、国粋主義的な権力支配構造を明確にしている。






参政党の憲法草案の文言に並ぶのは、支配者である自分たちから、被支配者である国民にたいする、義務義務義務義務の文字。統治する自分たち支配者側には、なんの義務も課していない。人間が最も残忍で冷酷になれるのは、自身の揺るがない正義を確信したとき。こういう権力の亡者や、自分たちを全く疑わない、独善に振りきれた連中が何をするかというと。
















幼稚で無邪気なファシストまるだしの憲法草案(本人達は多分無自覚。その有り様は、まさに救国軍事会議そのもの)。それが参政党の偽りなき正体なのだが、クリスチアン大佐のような低○達の受けはすこぶる良い。コイツらは、自分たちの行き過ぎた“善意”が、もはや凶器になっているのがわからない。