ニンゲンには立ちながらすることがあるように思う。
歩くこともそうだし、立ち食い蕎麦はそうしないと呼称矛盾になるし、横になりながら信号待ちする者も居らぬだろう。
また、立ち話も座っていてはできないし、勿論、立ちションも不可能だ。
色めき立つことだって難しい。
(それは違うぞ)
丹下段平が「立て、立て、立つんだジョー」と言うのも立たなければ負けてしまうボクシングだからである。
いや、ボクシングでなくともこの社会では身を立てなければ出世さえすることができないらしい。
そう思うと立ちながらすることは意外にも多い。
立ちながらすることで私が好きなものは、電車に乗ってドアの側に立ち、飛び去って行く景色を見ることである。
まず席には座らない。
巨大なマンションが存在を誇示し、戸建住宅も現れては消え 消えては現れ、キリがない。
夜にはそれらの窓に明かりが灯り、その光の数だけ家庭がある。
高架を走る電車から時折見えるアパートやマンションの部屋には寛ぐ人がいたり、食事をしている人達の日常があり、それらは瞬時に過ぎ去っていく。
そこが人間の営みに満ちていることを感じさせるし、当たり前のことだが、ここにも生活があるのだなと思う。
電車を降りればヒトアタリしそうな人の数。
なんだか佃煮のようだ。
人間ってクラクラするぐらいいるんだな。
そのそれぞれが思想を持ち、思いを巡らせ、意見を言う。
同じであろう筈がない。
いったい幾つの個がそこにあるのか。
思索の地平に放り出された凡人は茫漠としてただ立ち尽くすのみである。
ああ、ここにも立たなければ出来ないことがあった。
(いや、ただ電車の中で立っているだけだろうて。)