例えば1兆という単位がどのぐらいの量なのか感覚として理解している人は少ないだろう。
一般の人は絶対甘く見ているのではないだろうか。
 
簡単に口にすることは誰にだってできるが、その量たるや それはそれは凄まじいものなのだ。

概算だが、お米の1兆粒は10tトラックに満載して250台分と言ったら信じてもらえるだろうか。
(超概算。当然だが設定値によっては大幅に違う値)
 
1兆mmは100万km。地球25周。
マラソンだと 約2万3700回分。
瀬古利彦だって1兆mmは走れないのだ。
(瀬古って誰?と言う人は自信を持って言っていい。「私は若い!」と。)
 
1兆秒となると3万1709年。
人間は1兆秒は生きられない!
と言うか、そんな物差し持って来てどうすんだ!ぐらいの遥か彼方っぷりである。
 
そう思うと国家予算とは凄いものなのだな。
 
兆の後の単位はこれより後

京(けい・きょう)
垓(がい)
予(じょ)
穣(じょう)
溝(こう)
潤 (かん)
正 (せい)
載(さい)
極(ごく)
恒河沙 (ごうがしゃ)
阿僧祇 (あそうぎ)
那由多 (なゆた )
不可思議 (ふかしぎ )
無量大数 (むりょうたいすう )
 
大きな数が無量にあるというのだからそれはさぞかし大きな数なのだろう。

先に言ったもん勝ち的な単位である。

そして一般的に知られているのはこの辺りまでだと思う。

だが。だがだが。

それ以降もまだまだ続くのだ。
心して読むように。

洛叉(らくしゃ)
倶胝(くてい)
阿庾多(あゆた)
那由他(なゆた)
頻波羅(びんばら)
矜羯羅(こんがら)
阿伽羅(あから)
最勝(さいしょう)
摩婆羅(まばら)
阿婆羅(あばら)
多婆羅(たばら)
界分(かいぶん)
普摩(ふま)
禰摩(ねま)
阿婆鈐(あばけん)
弥伽婆(みかば)
毘攞伽(びらか)
毘伽婆(びかば) 

僧羯邏摩(そうがらま)
毘薩羅(びさら)
毘贍婆(びせんば)
毘盛伽(びじょうが)
毘素陀(びすだ)
毘婆訶(びばか)
毘薄底(びばてい)
毘佉擔(びきゃたん)
称量(しょうりょう)
一持(いちじ)
異路(いろ)
顛倒(てんどう)
三末耶(さんまや)
毘睹羅(びとら)
奚婆羅(けいばら)
伺察(しさつ)
周広(しゅうこう)
高出(こうしゅつ)
最妙(さいみょう)
泥羅婆(ないらば)
訶理婆(かりば)
一動(いちどう) 

訶理蒲(かりぼ)
訶理三(かりさん)
奚魯伽(けいろか)
達攞歩陀(たつらほだ)
訶魯那(かろな)
摩魯陀(まろだ)
懺慕陀(ざんぼだ)
瑿攞陀(えいらだ)
摩魯摩(まろま)
調伏(ちょうぶく)
離僑慢(りきょうまん)
不動(ふどう)
極量(ごくりょう)
阿麼怛羅(あまたら)
勃麼怛羅(ぼまたら)
伽麼怛羅(がまたら)
那麼怛羅(なまたら)
奚麼怛羅(けいまたら)
鞞麼怛羅(べいまたら)
鉢羅麼怛羅(はらまたら)
尸婆麼怛羅(しばまたら) 

翳羅(えいら) 

薜羅(べいら)
諦羅(たいら)
偈羅(げら)
歩羅(そほら)
泥羅(ないら)
計羅(けいら)
細羅(さいら)
睥羅(へいら)
謎羅(めいら)
娑攞荼(しゃらだ)
謎魯陀(めいろだ)
契魯陀(けいろだ)
摩睹羅(まとら)
娑母羅(しゃもら)
阿野娑(あやしゃ)
迦麼羅(かまら)
摩伽婆(まかば)
阿怛羅(あたら)
醯魯耶(けいろや)
薜魯婆(べいろば)
羯羅波(からは)
訶婆婆(かばば) 

毘婆羅(びばら)
那婆羅(なばら)
摩攞羅(まらら)
娑婆羅(しゃばら)
迷攞普(めいらふ)
者麼羅(しゃまら)
駄麼羅(だまら)
鉢攞麼陀(はらまだ)
毘迦摩(びかま)
烏波跋多(うはばた)
演説(えんぜつ)
無尽(むじん)
出生(しゅっしょう)
無我(むが)
阿畔多(あばんた)
青蓮華(しょうれんげ)
鉢頭摩(はどま)
僧祇(そうぎ)
趣(しゅ)
至(し)
阿僧祇(あそうぎ)
阿僧祇転(あそうぎてん)
無量(むりょう)
無量転(むりょうてん)
無辺(むへん)
無辺転(むへんてん)
無等(むとう)
無等転(むとうてん)
不可数(ふかすう)
不可数転(ふかすうてん)
不可称(ふかしょう)
不可称転(ふかしょうてん)
不可思(ふかし)
不可思転(ふかしてん)
不可量(ふかりょう)
不可量転(ふかりょうてん)
不可説(ふかせつ)
不可説転(ふかせつてん)
不可説不可説(ふかせつふかせつ)
不可説不可説転(ふかせつふかせつてん)

ふぅ。。。

無量大数以降124も単位があるのだ。

「あまたら」「ぼまたら」「がまたら」とか、「えいら」だの「べいら」だの「たいら」だのおそ松くんかよ! と突っ込みたくなる箇所も幾つかある。

こんなに必要ないだろうとも思うが、この単位は仏教の経典から来ているらしいので、数の単位というよりは永遠と続くものの象徴として数の概念を持ってきたのかも知れない。
そして、一から始まりずっと読んでいくとお坊さんになったような気になれる。

序盤の「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん」辺りは(いつも言ってるよこれ)ぐらいの感じだが、「けい、がい、じょ、じょう・・」からは一気に仏門になだれ込んでいく感覚になる。
なんなら袈裟でも身に纏いながら。

延々と同じようなリズム、速度で読み上げていき、最後をスローにし


「ふ〜か〜せ〜つぅ〜・・ふ〜〜かぁ〜〜〜せぇ〜〜〜つぅ〜〜〜〜てぇぇぇ〜んんんん〜〜・・・」


そして最後の「ん」は噛み締めるように何度か言い続けると終わった頃、気分は高僧なのである。

また不思議なのは、「那由多」と「阿僧祇」が2回出てくることである。
(よく見ると「那由多」と「那由他」ではあるけれども)
偉いヒトが勿体ぶってあまりに長く読経しているうちに思わず2回出てきてしまったのかも知れない。
(あれ?これさっき言ったような・・・いや誰も分からんだろ、構うものかこのままにしとこ)てなものではないだろうか。
多分てなものではなかろうが。

しかし数の単位が2回出てくるのはどう考えてもまずいだろう。

今からX年後・・・

「見積もりでは7850阿僧祇28円(消費税込)だったじゃないですか!」

「そうですよ、7850阿僧祇28円(消費税込)。但し上の単位の方の阿僧祇。イヒヒ」

てなことになったら大変である。
とても心配なのだ。