先日の当ブログで、人間のパーソナルエリアだけではなく言葉にもそれはある旨の記述をした。
それについての話を要望されたので、書いてみることにする。
本稿は言葉について。

人間のパーソナルエリアは個人の感覚が作り出す、当事者だけのものだが、対して言葉のそれは、言葉の意味を表す範囲(エリア)を個人的(パーソナル)にどう使っているのかという意味での「パーソナルなエリア」であり、言葉自体のパーソナルエリアではない。
しかしながら、考えてみればこれも言葉を使う当事者だけのものだ。

自分自身が、その言葉の表す範囲を「こんな感じであろう」と認識・判断、又は感じつつ、自身の想いに近いものを数多ある語群の中からその時の気分に合うものをチョイスし、言葉というツブテを放っているわけである。

しかし何かを語ろうとしても、今ある語彙の中では表現しようがない場合、(自身の語彙不足、言葉の認識不足から来るエリアの狭さは勿論あるにせよ) "言葉の外側"にあるものは語れないわけだが、それを語れてしまう(語ったように思い込んでいる)者とは言葉の持つエリアが違うのだなと思わざるを得ない。
どちらが正しいかという話ではなく。

それは「人間」であったり「心」であったり「真理」であったり、時に「生や死」だ。

言葉を駆使して何かを言ったような気がしてもそれは恐らく気のせいなのだ。


Amebaブログに執筆しているある方が「想いを言葉に換えているのではなく、近しいイメージの言葉に想いを強引に寄せてしまっているだけだ。」(大意であり、このままの文言ではない。陳謝)旨の発言をした。
全くその通りである。

少し長くなるが、言語学者 鈴木孝夫氏の著した「ことばと文化」より引用させていただく。

一☆一☆一☆一


「ことばというものは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われる仕方で、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている。言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分けされた、ものやこと(『もの』と『こと』にルビ有り。註釈daitaism)の集合であるかのような姿の下に、人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っているのである。」

「あれこれと考えてみると、客観的に存在するもの(『もの』にルビ有り。)を人がことばによって表現するというよりは、ある特殊な見方、現実の切り方が集約されたものとしてのことばが、私たちに、そのような特徴、性質をそなえた事物が、そこに存在すると思わせると考える方が、言語学的にみて妥当のようである。」

一☆一☆一☆一


だってさ。
(いや、何故急にカジュアルに。)

このように言葉とはあらゆるものの芯にヒットするようなものでは無く、範囲の中に少しでも入れば、又は入ったと思ったら使ってしまうものだということだ。

そうなると当然ながら、想いを寸分の違いも無く、表現することは不可能ということでもある。
このことはアタマのどこかへちょこんと置いておきたい。

話は少し横道へ。

例えば、英語の"break" は切るとか壊す、割るの意味だが、日本語において全ての切るや壊すや割るを英語の中で"break" にすると間違えていることは多い。




或いは"drink"もそうだ。
言葉や意見や息や薬やタバコをのむのに英文で"drink"は使わない。
(液体の薬の場合は使えないこともない)

これは外国語と日本語では単語の構造性も違っていて言葉の意味する範囲も当然違ってくるという話だが、日本語同士の中にもそれはあって、ひとつの言葉が万人すべからく同じ形、大きさでエリアをイメージしているのではない。

特に形容詞は「広い」「狭い」「大きい」「小さい」または「珍しい」などの隠れた基準のあるものが多く、これらは人や場合によって使う言葉が違ってくる。


ある人にとっては「広い」家でも別の人にとっては「狭い」家となる。個人の感覚であったり、また10畳を一人で使うには「広い」と感じても30畳に100人いたら「狭い」と感じるように使用条件によっても違ってくるし、その条件そのものがヒトによって違うのだから厄介である。

また「笑い・笑う」ということも興味深い。
面白いと思って言ったジョークが他人には露ほども伝わらないといったことはよくある。
(自分のジョークこそ、面白いと思っているわけではない)

それは言葉のエリアの話では無く、価値観や笑う感覚のことだろうと思うかもしれない。
しかし私はそれも言葉の持つエリアが受け手側それぞれに違うことも大きな要因だと感じている。

お笑い芸人などは(本人の)パーソナルな、(言葉の)エリアの使い方が上手く、丁度良い具合にマスの最大公約数辺りをなぞっているからこそ多数の支持を得るのだろう。

簡単に言うと、個人が思う、謂わば "言葉の守備範囲"がヒトによって違うし、その違い或いは同じ加減具合が他人との関係が作られる中で心地良いものになるか、そうでないかの要因のひとつにもなり得るということだ。

ただ、こんなことを言ったからといって、同じ言語を使っている者同士、言葉のエリアは重なる部分が多いのは事実であるし、常に耳や感覚を研ぎ澄ませてエリア判定をしているわけでは無く、ほんのり感じることがあるというハナシなんである。