ヒトは文章をどのような感じで
読み取っているのだろうか。

勿論、頭から読み始めて、単語の意味や慣用句の使われ方等を理解していくのであり、得た情報を無意識のうちに脳の中の知識部屋や感覚部屋、或いは不必要情報部屋へと振り分けていくのだろう。

何れにせよ正しい文字ありき、その順番ありきが前提の話である。

しかし、文章は単語の最初の文字と最後の文字が正しければ途中はデタラメでも意味はある程度伝わることを知っているだろうか。

この文を読んでみる。


どうだろう。
不思議なくらい、よゃちめうのではないだろうか。
(この場合は何だか怪しい。)


一文字づつゆっくりと読んでいくと意味は逆に分かりにくくなるのだがサラッと流し読みをすると理解できるという不思議さ。

思うに、ヒトは文章を読んでいるのではなく、スキャンしているのではないか。
そのスキャンスピードを極限にまで上げたものが速読といわれるものなのだろう。

日本語表記は漢字・平仮名・片仮名の組み合わせだが、漢字だけを読んでいくのも早く読む一つの方法だと聞いたことがある。
実際にやってみると詳細はともかく大意は掴める。(気がする)

しかしこのスキャンという方法は何も改めてここで言うまでもなく、皆無意識のうちに程度の差こそあれ実践していると思う。

文章や文字に留まらず、巷に溢れる情報をひとつずつ逐一理解していくのではなく、感覚的にサッと捉えて取捨選択するのも大事なことである。

私の場合、そこにある情報が自分にとって「有用である」か「要らないものである」かを判断するのだが、これは比較的瞬時に判断し易く、また殆どが後者になっていることに気付く。
(「有用である」と思っても実はそうでもなかったということも勿論ある。)

それでも少ない「有用である」ものですら、最早私の脳のキャパシティは飽和状態である為、留めておくことはできなくなっている。

ではどうするかというと、脳をほんの少しだけ活動させたまま脳内の空き部屋をキープしておき、有用であったり、気にかかる物事、疑問、気付いたこと、興味深いこと等を(ここからはイメージ)自身の背後にある大きな本棚に差し置くのである。

脳の負担は出来うる限り軽く、そして膨大な本棚の幾つもの情報にアクセスできるようそのシナプスだけは維持しておく。
脳の省エネである。
(実はそれが大変なのだが。)

何かの拍子に、(うん?これはあの問題の解に繋がっているのでは?)と気がついた時、(空想の)本棚へ振り向き、繋げておいた細い回路を手繰り寄せ、空き部屋へ連れ込んで咀嚼するのだ。
散らかった記憶の断片や長年の疑問、それらが不意に目の前に現れたピースにより、合致した時の快感はなかなかのものである。

「そうは言ってもその本棚も、そこにある情報も同じ脳の中にあるものだろう」

そんなことはワンハンドレッドアイノウなんである。
あくまでもイメージであってそんな脳の使い方が出来るのかは私自身甚だ疑問ではある。
それでもそれが出来たと感じることもあるのだ。

アナログな方法として空想の本棚ではなくメモに残す方法はお勧めである。
特にスマートフォンの登場以来、私のそれは(なんでこれをメモしたんだろう?)と思うようなものも多いが、それを見返すだけでも大変興味深い。

このブログに記すことも、そのメモをヒントに書く場合もあるが、ひとつの短い言葉を端緒に長い表現になることもあれば、「何か壮大な気付きだ!」と思っても小さなハナシにしかならないこともある。

ま、そんなモンなのである。
そんなモンではあるが、架空であれ、リアルであれ私的ライブラリーを持ち、知識と経験、そしてその2つをブレンドして出てくる知恵や、情報、語彙のストックを少しでも増やしたいし、またそうすることによって世界が広がる気もする。
あくまでも私自身の狭い世界だが。

とは言え、そんな諸々を仮に持っていたとしても口を突いて出るのは
「ほら、アレだよ、アレ。」
「なんて言ったっけ、ここまで出てるけど」
「さっきまで何か考えてたのに、何だっけな?」

そんなのばっかり。