いよいよこの話をする時が来たようである。


いや、来たようであると言ってもただ私が勝手にするだけなのだが。
果たして伝わるのか甚だ心許ない。

と思うぐらい難しいのだ。

難しいと言うのは話の内容というより、書いて伝えることが果たして出来るのだろうかという意味合いである。

目の前に紺碧の空とエメラルドグリーンの海が広がっているとしよう。
赤と青が鮮やかなツートンカラーの船体に白い帆なびくヨットが沖に浮かんでいるのが見える。

その時、私の目に映るその色は果たして他人にも"同じ感じ"で見えているのだろうか。

"同じ色"、共通の"色の名前"で見えていることはほぼ間違いないだろう。

空は青く、船体の赤い部分は赤、青い部分は青く見えているのは間違いない。
当たり前である。

例えば信号機の絵を前にして、仮に3人の人間に「赤はどれですか?」と質問し、一斉に指差して貰えば全員"赤"を指し示すと思う。

(色覚が弱い症状を持つ例は今は措く)

だが、私が"赤"に見えているその色は他人には私が"青" と呼んでいる"色"、若しくは"赤"とは呼ばない"色"で目に映っている可能性はあるのだ。

逆に、ある他人Aが "赤"と呼ぶ色は私にはAが感じるところの"青"に見えているかも知れないとも言える。
勿論、私にとっては赤であるその色が。

何故なら他人がどんな感じに見えているかなど分かりはしないからである。

いやいや、そんなことになったら交差点は事故だらけになるだろうと思うかも知れないが、誰がどんな"感じ"に見えていようが、生まれてこのかた「この色は赤というのだな。そしてこの色が点灯している時は止まれなのだ。」と認識していれば、"その色"がどう見えているのかは問題ではないのだ。

色というものは客観的に観察、または定義することができない極主観的な性質のものだからである。
(もっというと世の中に"色"は存在しないという説もあるが、またもや今は触れずに措く)


このことに引っかかる人は一定数いるようで、気にならない人は全く気にならないらしいのだが、私は脚を取られて躓いてしまった。

これは私の癖である、突拍子もないことを考える与太話でも、オリジナルの考えでもなく、哲学の分野では「クオリア」や「逆転クオリア」と呼ばれている考察である。

他人はリンゴをどんな色の感じで見ているのだろう。

私は"赤"である。
そうとしか言いようがない。