23時を少し回った頃、ベルリンを出発した列車はミュンヘンまでを繋ぐレールの上を予定通りに走っていく。

途中の駅から同じコンパートメントに20歳前後と思われる可愛らしいドイツ人女性が入ってきた。
何故ドイツ人と分かるかと言うと本人がそう言ったからである。

彼女の名前は失念してしまったが、楽しい列車の旅になる予感しかなかった。

因みにコンパートメントと言っても予約席ではなく、空いていれば誰もが入れる、片側3席が向かい合う6人用の部屋である。

私と彼女は窓際の席に向かい合って座り、国のこと、音楽のこと、興味あることなどの話で楽しい時間を過ごしていた。

私が日本人だと知ると

「サカモトを知っている?」

と聞いてくる。

「サカモト?」

(誰だろう。坂本九?いや、若い子は、ましてドイツ人は知らんだろう。坂本龍一か⁉︎)

「リューイチ?」

「違うわ。ヒーホーサカモトのことよ。」

(ヒーホー?知らねーよ。誰なのよ、そのヒト)
「いや、知らないな。」

「ヒーホーサカモトを知らないの?あなた日本人よね?」

「え、ホントに知らないんだけど。」
(有名な坂本ひーほーなる人物が日本にいると言うのか?)


などと楽しい時間を過ごしていた。

その後もう一名、落ち着いた感じの中年男性が入ってきて通路側の席に座る。

男性は、若い二人が盛り上がっているところに入り混むのは野暮だとでも思っているのか、ドイツ語しかできないせいか、殆ど話すこともなく時折微かな微笑みを見せるだけである。

が、しかし。
どこか翳のある彼の眼の奥は笑っておらず、深い闇を湛えているようにも見える。
どこか妖しいオーラを纏っているのだ。
何となく嫌な予感がする。

そんなことを考えつつ、気が付くと夜は深みに入り、3人の合意で電気を消し、就寝モードへ。

どれぐらい時間が経っただろう。
眩しさで目を覚まし、寝ぼけ眼で窓の外を覗くと、どこかの駅に停車している。
真夜中とはいえホームには明かりが煌々と点いており、ガラス越しに部屋の中まで光が差し込んでくるせいだ。

中年男性の方を見ると腕を組んだまま眠っている。

彼女は、と見るとガラスに顔がくっつかんばかりに外を凝視している。


しかし、様子が変だ。
その横顔は先ほどまでの彼女とは何かが違っているのがハッキリと分かる。

その時。
彼女がゆっくりとこちらに向き直る。
その顔を見た時、背筋が凍りついてしまった。

目の周りにグルリと濃いブルーのアイシャドウを塗り、口紅は真紫。
歯を剥き出してニヤニヤ笑ってこちらを見ているのだ。
髪の毛も逆立っているようにさえ見える。
明らかに先ほどまでの彼女ではなく、完全に何かが乗り移ったような容貌である。

(何何何何何何何!!)

怖ぇぇ。 どうするか。

「可愛いメークだね。どうかしちゃったシンディローパーみたいだよ。」

いやいや、メークに触れるのは地雷のような気もする。

とにかく落ち着かねば。
動揺を見せていいことは何もないことぐらいは分かる。
出た言葉は

「ハ、、ハーイ。。眩しいね。」

何という頓珍漢な挨拶だろう。
しかしそんな私の問いかけなど聞いていないかのようにヘラヘラ笑い、独り言をブツブツ呟いている。

もう何も話しかけることなぞ出来ず、寝たふりをする。
とても眠れやしないのだが。

ちょい時間前までフレンドリーに話していたのに、今彼女は自分の世界の中で私の見えない誰かに話しかけている。

そのうちコンパートメントを出ていったのでホッとしたのも束の間、すぐに戻って来た。
あろうことか頬が赤くなっているではないか。

益々近寄りがたい風貌となった彼女は勝手にコンパートメントの明かりをつけ、訳のわからないことを私に問いかけてくる。

「いくら払えば時が巻き戻ると思う?」

「宇宙の果ての店にビールは売っているの?」

「あんた、いい男だね。 あたいと一緒に旅しない?」

恐怖と困惑が混ぜ合わさったような時間が過ぎ、再び彼女はコンパートメントを出てゆく。

するとずっと寝ていると思っていた中年男性が言葉の通じない私に向かい、右手に何かを持った仕草をし、それを左手に向かって差すジェスチャーをした後、掌を顔の前で動かす。

「アイツはコレをやっているから相手にするな」

嗚呼、そういうことなのか。
コレの詳細は分からないが、何かヤバイモノを身体に取り込んだということは理解できた。

コンパートメントに戻って来た彼女はステップを踏んだり奇声を発している。
当初"私と彼女"&"中年男性"の括りが、今や"私と中年男性"&"シンディローパー"とすっかり様変わりしてしまった。

リミッターの外れた極楽鳥の檻に閉じ込められた大人しい男性二人といったところだろうか。
(私も意味が分からない)

数時間後、彼女は電車を降り、安心した私はストンと眠りに落ち、早朝ミュンヘンで目覚めた時には中年男性の姿は既になかった。

前半は夢のような、後半は悪夢のような鉄路の旅。

「予感というものは当てにできない。」

ということを学んだ一夜であった。