インドのバスに揺られて次の街まで移動していた時。

時折、ドライブインというにはあまりに安普請な感じのチャイドゥカン(インド風ミルクティーのチャイを提供するお茶屋)のある素朴な休憩所に停まるのだが、バスがエンジンを切ると周りに物売りの少年達が群がり集まってくる。

それは食べ物もあれば、アクセサリー等の小物、それに今それ買ってどうすんの?という嵩の張る玩具までというように、とてもバリエーションに富んでいる。

私は窓越しにサモサ売りの少年に二つばかり欲しいことを告げ、新聞紙に包まれた まだ熱さの残るサモサを受け取り、代金を渡そうと手を伸ばす。

少年が掴み損ねたのか、それとも私の渡し方が雑だったのか、彼の手からコインが2枚程こぼれ落ちてしまう。
それは傾いた陽の光を浴びて、キラキラ鈍い光を放ちながらスローモーションのように落ちてゆく。

気が付くと あれだけ猛り狂った陽射しもそろそろ店じまいといった様子を見せ始めている。

揚げてからさほど時間が経っていないのだろう 包みの上からでも熱さの分かるサモサに火傷をしないよう慎重に噛り付く。

パリッとした外皮の中にあるジューシーなカレー風味の挽肉とジャガイモからホンの一瞬、湯気が立ち昇ったかと思うとすぐに消えた。
車内の気温が高いせいだ。
しかし美味い。

インドで知り合ったひとりの日本人は入国当初、食べ物が全く口に合わず、ろくに食事を摂ることができなかったが、サモサだけは美味しく食べることができ、奴が命を繋いでくれたんだと大袈裟なことを言っていたっけ。

口に頬張りながら何気無く道路から3mほどのところにある小さな斜面を見ると何処にでもある、何の変哲もない小さな石鹸ほどの石に目がとまる。
ただの石としか言いようのない、何処にでもあるような単なる「石」だ。

可笑しな考えが頭をよぎる。
あの石はひょっとしたら私が生まれる前からあの場所を1mmたりとも動いていないということはないだろうか?
人間が故意に動かしたり、動物の足に引っ掛かって移動したりすることはなさそうな急斜面の懐に収まっている。

インドと日本の距離を約6000kmとして、私が生まれた瞬間からあの石との距離は近付いたり離れたりしながら常に変化し、それはインドへ入国後も変わらず変化し続け、縮まり、遠ざかり、また縮まりの繰り返しの果てにやっとその距離が3mほどになったのだとしたら。

長い間、私が近くにくるのをジッと待っていた?
あと数分でバスはまた動き出し、もうその距離も再び開く一方になる・・

そう考えるとその石が堪らなく愛しく思えてきた。

(バスを降りて拾ってこようか)

そう考えたが何故かそれをやってはいけないような気がしてシートに座ったままその石を見つめる。

気が付くと周りにも同じような石や花や木が其処此処にあり、こいつらとはもう二度と会うこともないんだろうなと云う思いに至る。
人間と無機物の一期一会なんてあるのだろうか。

・・・・・

休憩を終えた運転手がバスに戻り、再び機嫌の悪いエンジンが苦しそうなうなりをあげて回り始め、乗客を目的地へ運ぶ為にバスはゆっくりと動き出す。

私は最後のサモサを口に放り込むと小さな伸びをしてからシートにもたれ、少し首を傾けて 小さくなってゆく石に軽く視線を送ると正面に向き直り目を閉じた。

なんだか新たな旅にリセットされたような気分。