30年前、1994年5月1日
準夜勤務を終えて帰宅して、深夜、テレビのF1中継
イモラでのサンマリノグランプリ F1GP3戦目
座り込んで見ていたのですが、レース開始からどこか異様な雰囲気でした。
2日前のバリチェロのクラッシュに続いて、予選でラッツェンバーガーの事故死。
この時点で、あまりにスピードを重視しすぎて危険なのではとの声はドライバーから上がっていたようです。
それでもチェッカーが振られレース開始。
後方の車両でクラッシュが発生しオイルが漏れたかなにかで一度イエローフラッグが出ました。何周かセーフティカーの先導、それが外れた直後のことでした。
中継を見ていた時はすぐ後ろを走っていたシューマッハのオンボードカメラの映像。
前方を走るセナのマシンがカーブを曲がることなく真っ直ぐに突き進んでいきました。
「セナ、クラーーーーッシュ!」
実況で絶叫したのは、今めざましテレビでメインを務める三宅アナでした。
くるくると回ったマシンがコース上に停止し、一瞬セナの頭が動いたのですがそれは、生きている人間の動きではなく、筋肉の力が全くなくなって頭部の重みでゆらっと動いたにすぎませんでした。
赤旗中断で、その場で救命処置。あっという間にドクターヘリで搬送。
あとで発表されたのが、頭部の致命的なダメージにも関わらず、処置によって心肺機能はわずかに回復したそうです。
しかしこの時、見ていた私はもう助からない予感がしていました。その場で気管切開が施され生命維持装置がつけられはしたものの、映像で見るセナの身体が生きている人のものではなかった。ただその予感がまだ経験不十分な新人看護師のいい加減な浅はかな知識の勘違いであることを願っていました。
レースが再開され優勝したのはシューマッハ
「優勝はしたが、とてもじゃないけど喜べない」
と話していました。
このシーズンで初めてポイントをゲットした片山右京選手も鎮痛な面持ちで会見をしていました。
30年前なのになんでこんなに鮮明に覚えているんだろう。
この数日前に、初めてF1のチケットが取れて、セナの走りを鈴鹿で見るのを楽しみにしていた矢先。
生まれて初めてショックで眠れないという体験をしました。
この後に各地で行われた追悼コンサート、セレモニーにも足を運び、全試合のビデオも購入、大切に手元に置いてます。
事故当時の映像も未だに保存しています。
もう30年になるのが、早いのか遅いのか自分でも夢の中にいるようで。
人間的にもとっても魅力的な人で“音速の貴公子”と呼ばれたドライバー。
いつか、宝塚で彼のストーリーをショーの一場面でもいいからやってもらいたいという夢はあったのですが、今の宝塚じゃセナ財団がOKしないでしょう。
F-1グランプリって、出走するドライバーは意外に思うくらい自国に対する誇りを持って参戦しています。オリンピックに匹敵するくらい。
セナは母国ブラジルと共に日本をとっても愛してくれていましたね。ホンダエンジンとの繋がりもあったでしょうが、もしこの事故がなかったら、もっともっと日本のいろんなものに触れてもらいたかったなーと思います。