叶わぬ恋とは魔物である。4~禁断の果実と恥じらい | 草加大介 公式ブログ ナンパ塾・恋愛塾・別れさせない屋・復縁塾

叶わぬ恋とは魔物である。4~禁断の果実と恥じらい

 

 

 

 

 

 

 

 

マスターベーションは今でも好きだが、彼らの「処女から奪う最初の接吻」をもっとも聴いていたほぼ同時期にレベッカというバンドの「フレンズ」という曲が世間ではヒットしていた。

 

以下である。

 

 

 

 

 

作詞 : Nokko  作曲 :土橋安騎夫

口づけをかわした日は
ママの顔さえも見れなかった
ポケットのコインあつめて
ひとつづつ夢をかぞえたね
ほらあれは2人のかくれが
ひみつのメモリー oh

どこでこわれたの oh フレンズ
うつむく日はみつめあって
指をつないだら oh フレンズ
時がとまる気がした

ねえ君は覚えている
夕映えによくにあうあの曲
だまりこむ君がいつも
悲しくて口づさんだのに
今時は流れてセピアに
染まるメロディー oh

 

二度ともどれない oh フレンズ
他人よりも遠くみえて
いつも走ってた oh フレンズ
あの瞳がいとしい

どこでこわれたの oh フレンズ
うつむく日はみつめあって
指をつないだら oh フレンズ
時がとまる気がした

二度ともどれない oh フレンズ
他人よりも遠くみえて
いつも走ってた oh フレンズ
あの瞳がいとしい

 

 

 

 

 

 

このバンドが好きなわけではないのだが、『歌詞の冒頭がずいぶん思い切ってるなあ』と感じた。

 

この部分である。

 

口づけをかわした日は
ママの顔さえも見れなかった
 

 

 

 

 

 

 

 

処女の接吻、つまり初めての接吻時の女心が端的に表されている。

 

パパではなく、ママと書かれているが、接吻が女同士でしか共有できない(=解らない)一線を越えた行為である事は明らかである。

 

一線を越えた行為とは言い換えれば女として成長する過程における禁断の行為だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数年前から聖書を勉強していると申しあげたが、聖書のアダムとイブに関する記述に禁断の果実がある。

 

 

 

以下詳細

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%96%AD%E3%81%AE%E6%9E%9C%E5%AE%9F

 

 

 

 

 

解りやすく、以下に一部を転載する。

 

禁断の果実(きんだんのかじつ、Forbidden fruit)とは、それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になるもののことをいう。

メタファーとしての「禁断の果実」という語句は、旧約聖書の『創世記』をもとにしている[1]。創世記では、禁断の果実とは、善悪の知識の木の果実を指す。アダムとイヴエデンの園にある果樹のうち、この樹の実だけは食べることを禁じられるが、イヴヘビにそそのかされてこの実を食べ、アダムにも分け与える(イブが先と書くのは旧約聖書においてであり、イスラム教クルアーンにおいてはどちらが先に口にしたかは書かれていない)。この果実を口にした結果、アダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放した。彼らは死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖書を勉強して苦労するのは5ヶ月という表記が実際は5年だったり、比喩とかが多くて考えなければ内容が解らない点である。

 

ヘビにそそのかされたと書かれてるが、これはヘビではなく爬虫類の地球外生命体という説が有力である。

 

トランプ大統領を支持しているのはキリスト教の福音派であるが、彼らのほとんどはそう考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「善悪の知識の木」ー食べてはいけないこの木の果実(=禁断)の部分に二人は手をかけた。

 

果実が性行為であるのは明らかだろう。

 

その性行為における最初の行為が接吻である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拙著『究極の恋愛論(男女共通講座)前編』(radical)を読んだ男女なら解るだろう。

 

恋愛関係を築くには性愛が必要になるが、善悪の正確な知識が無ければお互いの関係は築けないのである。

 

正確な知識とは三島由紀夫の言葉を借りて言えばこれだ。

 

美と悪は同意語である。

 

拙著ではこう説明している。

 

子宮(=女)は邪悪な存在であり、男がそれと関わるには男性器が邪悪である必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

『究極の恋愛論』を執筆時に聖書に関する知識は乏しかったが、『その内容は正しい』と聖書を読んで改めて思った。

 

読んでいない人には理解が難しいのでこの話を突っ込んで説明することは避けよう。

 

何にせよ、性行為によってこうなる。

 

アダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。

 

前回、恥じらいがないとどうなるかを述べたが、これによって恥じらいは便宜上必要なのは明らかだろう。

 

何にせよ、重要なのは我々は楽園から追放された存在であり、死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしているのである。

 

この苦役からかなり近いうちに我々は解放されるとトランプを支持しているキリスト教の福音派は現在考えているが、俺も同じ認識である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現時点でこのブログを読む男女は解放されるのかということよりも、自身の恋愛に興味があると思われる。

 

そんな彼らに助言するが、接吻という一つの行為だけでも男女がどう認識しているかによってその人の人生は地獄にもなり、天国にもなるということだ。

 

恋愛体質ではない女も童貞の男も接吻という行為だけでも本当に軽々しく考えている。

 

性行為に不自由している、AVが好きな彼らの頭には挿入時のことしかないのかもしれない。

 

動画の彼女はそんな男女とは違って、二人が接吻することによってそれまでの関係ではなく、恋愛という特殊な関係に昇華した時の女心を見事に表現している。

 

「処女から奪う最初の接吻」ーこのタイトルに「奪う」とあるが、この言葉には悪意が潜んでいる。

 

彼女の曲を聴きながら女の前で男は常に邪悪である必要性を俺は強く感じていた。

 

聖書はその認識の正しさにお墨付きを与えている。・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老婆心ながら以下も紹介する。