六 『比丘たちよ、比丘は「五蘊法」(色・受・想・行・識の存在)に対して観察しなければならないので、比丘よ、色(色--物質)はこれこれであり、色が出るのはこれこれなことであり、消えるのはこれこれなのだ。
このように、これは感受作用であり、これは感受作用が出て消えることであり、想(=思考作用)と行(=知的活動)と識(=認識・観念作用)もまたそうであると見るべきなのです。
これと共に、五蘊の性質が何かと、それが出て消える実状に関して目の前にあらわれれば、世の中どんなものにも執着しないのだろうに、これが「五蘊法」に対し観察することなのだ。
比丘らよ、比丘は内外の六ヶ所に対し法を観察しなければならないので、目・耳・鼻・口・身体・意志は中にある六種類の感覚器官で、光・音・臭い・味・触る感覚・法(分別の対象)は外部の六種類の境界なのです。
比丘らよ、これは目で、これは光であり、また、その二種類の境界で私は感覚知覚による執着(良し悪しと快・不快への執着)を知って、まだ起きない執着は起きたこととして見て、すでに起きた執着はなくなったこととして観て、すでに消えた執着は未来に現われないこととして見るのです。
これと共に、耳と声において、鼻と臭いにおいて、口と味において、からだと触感ということにおいて、意識と分別法にもまた、そうするのです。
これと共に、内外で六ヶ所の法を観察して、その出て消えるということを如実に観て、目の前にあらわれれば、世の中のどんなものにも執着しないのだから、これが内外で六ヶ所を観察することになるのです。
比丘たちよ、比丘はこれと共に、七覚支と四聖諦と十二因縁と八聖道を観察して初禅・二禅・三禅・四禅の正定を成就することなのです。』