大吉ネタではないけれど、徒然なるままに・・・
企画という仕事に就いて、早や数十年になる。
最近は専らコンサルティングや執筆業が増えたが、久々に緊急の企画の依頼。
コンペではあるが、官公庁関連の仕事に緊張も高まる。
これまでも数多くの官公庁や自治体、また誰もが知る大舞台の仕事に携わってきたが、この緊張感は病み付きになってしまう。
自分は裏方に徹し、決して表舞台に出ることはないが、これが私のポリシー。
しかし、
『この仕事は●●じゃないとできない』
『困ったときの●●頼み』
を心掛けている。
今回の仕事も、昨日の依頼で、締切は明日という強行軍。
本来なら物理的にも断りたい仕事だが、
「チャンスをくれている」「頼りにされている」と、感謝の気持ちで受けた。
長年この仕事をしていると、自分の限界もわかるようになる。
「この仕事なら、一週間でできる」
「この仕事なら、一日徹夜すればできる」
「この仕事なら、誰と誰に頼めばできる」
などと、自分の周りのヒト・モノ・カネに、
時間と情報を乗じ、フル稼働させた結果が「できる」という答えを導く。
この段階で、既に企画が開始されているのだ。
一瞬でも、僅かな不安でも、
「(時間やヒト・モノ・カネ等)がないと、できない」
という考えを持ってしまうと100%の力が出せないだけでなく、「できない」言い訳を探すようになり、結果として失敗する。
正に負の連鎖だ。
とはいえ、負を否定している訳ではない。
この世は二元性に基づいて、成り立っているからだ。
簡単に言えば、「明暗」「善悪」・・・
暗闇があるからこそ、光の存在がある。
善を確認するために、悪が現象化される。
東京オリンピックに間に合わせるために新幹線を開発した。
その当時でも、時速300キロを超える技術はあった。
しかし、開発された新幹線は、時速210キロ。
ここにも、二元性が存在する。
早く走る技術はあっても、止まる技術が間に合わなかったからだ。
二元性が不可欠な現代社会。
そこには必ず、法律やら、道徳やら、社会性、価値観などの「基準」が存在する。
私の企画という仕事は、この「基準」を取り払うことから始まる。
しかし、悲しいかな、最終的には、この「基準」に当て嵌められる。
これが仕事という現実。
芸術家であれば、「基準」はないのかもしれないが、この世界で生きていく限り、現実的には枠の中にいることは否めない。
ただ、大切なことは、自分の心の中だけは、枠を外し、「基準」のない世界を作れるということ。
『我思う、ゆえに我あり』
企画という仕事に就いて、早や数十年になる。
最近は専らコンサルティングや執筆業が増えたが、久々に緊急の企画の依頼。
コンペではあるが、官公庁関連の仕事に緊張も高まる。
これまでも数多くの官公庁や自治体、また誰もが知る大舞台の仕事に携わってきたが、この緊張感は病み付きになってしまう。
自分は裏方に徹し、決して表舞台に出ることはないが、これが私のポリシー。
しかし、
『この仕事は●●じゃないとできない』
『困ったときの●●頼み』
を心掛けている。
今回の仕事も、昨日の依頼で、締切は明日という強行軍。
本来なら物理的にも断りたい仕事だが、
「チャンスをくれている」「頼りにされている」と、感謝の気持ちで受けた。
長年この仕事をしていると、自分の限界もわかるようになる。
「この仕事なら、一週間でできる」
「この仕事なら、一日徹夜すればできる」
「この仕事なら、誰と誰に頼めばできる」
などと、自分の周りのヒト・モノ・カネに、
時間と情報を乗じ、フル稼働させた結果が「できる」という答えを導く。
この段階で、既に企画が開始されているのだ。
一瞬でも、僅かな不安でも、
「(時間やヒト・モノ・カネ等)がないと、できない」
という考えを持ってしまうと100%の力が出せないだけでなく、「できない」言い訳を探すようになり、結果として失敗する。
正に負の連鎖だ。
とはいえ、負を否定している訳ではない。
この世は二元性に基づいて、成り立っているからだ。
簡単に言えば、「明暗」「善悪」・・・
暗闇があるからこそ、光の存在がある。
善を確認するために、悪が現象化される。
東京オリンピックに間に合わせるために新幹線を開発した。
その当時でも、時速300キロを超える技術はあった。
しかし、開発された新幹線は、時速210キロ。
ここにも、二元性が存在する。
早く走る技術はあっても、止まる技術が間に合わなかったからだ。
二元性が不可欠な現代社会。
そこには必ず、法律やら、道徳やら、社会性、価値観などの「基準」が存在する。
私の企画という仕事は、この「基準」を取り払うことから始まる。
しかし、悲しいかな、最終的には、この「基準」に当て嵌められる。
これが仕事という現実。
芸術家であれば、「基準」はないのかもしれないが、この世界で生きていく限り、現実的には枠の中にいることは否めない。
ただ、大切なことは、自分の心の中だけは、枠を外し、「基準」のない世界を作れるということ。
『我思う、ゆえに我あり』