朝に阪神淡路大震災から16年目であることを書いた。
そして、帰って新聞を読んだ。
もちろん1面は阪神淡路大震災の記事。
そして思った。
みんな頑張って生きている。
何に頑張っているかは人それぞれ。
答えが見つけられずに、答えを見つけるために頑張っている人。
起ちあがろうとして、もがいて、くじけてもそこから這い上がってこようと頑張っている人。
例をあげたらキリがない。
でも、何かのために一生懸命頑張って生きている。
そう思うと、今の自分は何してんだろうと情けなくて、悔しくて、虚しくて涙が出る。
生きたくても、生きることの出来なかった人に何か申し訳なくて。
これも私が高校生の時、
ちょうど阪神淡路大震災から2年を迎えようとした頃だった。
親戚の兄さんも交通事故で30を迎える前に死んだ。
大した歴史はないが、うちの家系としての後継ぎだった。
将来を有望されていた人だった。
自慢の親戚の兄さんだった。
でも、あっけなく死んでしまった。
そして、純粋な血筋で残るのは自分だけになってしまった。
何で俺なんかが残ってしまったのだろうと
親戚の伯父や伯母に凄く申し訳なくて
死んだ夜から、その後会うたびに泣いて許しを請うた。
墓前や仏壇の前に立つと自然と涙が出るのだ。
確かに私は何も悪くない。
でも、何で俺ではなく、親戚の兄さんだったのか。
そしていつも笑って言ってくれた。
頭をなでつけながら言ってくれた。
「生きろ」
それからは「生きる」という言葉についていつも考えている。
そして、今日も何も出来ないでいる自分に腹を立て、悔しくて、そう思うと辛くて涙が出る。
死んでいった人に対して申し訳なくて涙が出る。
残された、いや、残って今もただ何の成長もなく生きている自分に涙が出る。
映画「Star Trek: Generations」のエンディングでこんなセリフがある。
「どれだけ生きたかが問題じゃない。要はいかに生きたかだよ。」
「誰かが言っていた。この世に生を受けた瞬間から我々は刻一刻と死へ向かって行く・・・とね。しかし、時は命をもぎ取るばかりではない。時は人生のよき伴侶だ。常に、我々に寄り添い、日々の一瞬一瞬を慈しむ心を思い出させてくれる。二度と返らないものゆえにな。結局、我々は、全て、死にゆく運命にあるのだ。」
だから、泣きながらも明日、また頑張ろうと思う。
生きてさえいれば何度もやり直すことができる。
死んだ時に「生きて来て良かった」と思える人生にするために。
何を言っているか解らなくなったが、
つまりは、俺も頑張って生きて行こう。
ただそれだけだ。