今日は、雨が降って、寒かったですね。
天気予報では、クリスマスの気温だと言ってました。
台風も近づいているそうで。
ぼくらは昼前から夜まで劇場にこもってました。
ミュージカルで生バンドなので、
いろいろとチェックすることが多くて大変です。
あさってから本番です。
台風がくるかもしれませんが、
それにも負けないくらいみんながんばってますので、
是非観に来てください。

さて、今日は宮下さんのご紹介の続きです。

なぜ爆裂弾の実験をしようと決めた日に、宮下さんはこなかったのか?
佐木隆三さんの『小説 大逆事件』を参考にしています。

その前に。

宮下さんは、若い頃に、女郎買いをよくしていて、
なじみの女郎が年季が明けたので結婚しました。
奥さんは9つ年上でした。
しかし、その後、宮下さんが社会主義に目覚めてしまった後、
そんな危険な人とは一緒にいられないと、
宮下さんの仕事が亀崎から明科に移った時に別れています。
しかし宮下さんにはかなりの未練があったようです。

話は変わって。
1909年(明治42年)2月13日、幸徳さんと新村さんに初対面。
は、この前、書きましたが、
12月31日、「決行の時期と場所を決めたい」とまた平民社を訪ねましたが、
幸徳さんは寝ていたため、夜中まで新村さんと話し込みました。
1910年1月1日の朝は、幸徳さん、スガさん、宮下さん、新村さんの4人で、
屠蘇を飲んで雑煮を食べます。
しばらくたって、宮下さんがカバンから出してきたものは爆裂弾の材料でした。

爆裂弾を作るための材料ですが、
鶏冠石は愛知に住む古い知り合いの機械製造業者から、
仕事で使うと嘘をついて、買っています。
塩素酸カリは前にも書いたように、
ドクトル大石さんのところにいた新村さんが送ってくれました。
そして、宮下さんの部下の新田融さんの家で、
鶏冠石を薬研(やげん)ですりつぶします。
宮下さんはそのころ、おまわりさんの家の二階に住んでいたからです。
試験用の缶は、隣町に行って作ってもらいました。
で、1909年11月3日の花火大会の日に試験をしました。
そのあと、本番の爆裂弾用の缶は、
1909年12月に2個、翌年1910年4月に24個、新田融さんに作らせてます。
宮下さんは新田さんに社会主義の話をし、
『入獄記念/無政府共産』の小冊子を渡しています。

1910年の元旦の朝、宮下さんは、幸徳さんとスガさんと新村さんに、
新田さんが作った缶と、自分が油差しの缶を改造して作ったものと、
どっちがいいか見てほしい、と言います。
そして、みんなで代わる代わる二つの缶を投げてみます。
しかし、8畳間であるので、転がすような感じだったらしいです。
古河さんと宮下さんはいつもすれ違いで、
裁判所で初めて顔をあわせたということです。

もう一人、宮下さんが『入獄記念/無政府共産』を渡したのが、
清水太市郎という部下でした。
清水さんは、1909年9月に明科製材所に就職します。
それまでは、壮士芝居の役者をしていました。
オッペケペーで有名な川上音二郎一座にくわわり、
ヨーロッパ巡業もしたこともあるらしいです。
1910年1月清水さんは巡査の娘のタマさんと結婚します。
宮下さんは家が近く、可愛がっている部下の家でもあるし、
洗濯を頼んだり、清水さんがいなくても、家に上がったりしていたそうです。
清水さんは役者上がりで女にもてたそうで、
タマさんは、そのことを宮下さんに相談していました。
そして、宮下さんが新村さんとの約束をすっぽかした5月1日。
一緒に遊びに行こうと約束していたのに清水さんが出て行ってしまったため、
女のところに行ったに違いないと泣くタマさんを慰めているうちに、
肉体関係をもってしまったのでした。

1910年5月8日、
なぜか、宮下さんは爆裂弾の材料を部下の清水さんの家に預けます。
それだけ信用していたのでしょう。
しかし、その話を新村さんから聞いたスガさんは、怒ります。
「清水もタマもスパイかもしれない」

5月20日、宮下さんは警察から尋問を受けますが、うまくかわしました。
5月21日、宮下さんは清水さんに預けていた爆裂弾の材料を、
別のところに移そうと思い、清水さんの家に行き、
信用していた部下の清水さんに計画のすべてを打ち明けてしまいます。
5月22日、清水さんの家に行ってみると、松本に行っているという。
実は、清水さんは、役者あがりであるためなかなか就職できず、
知り合いであった製材所所長の温情で製材所に採用されたため、
『職工たちの間で不穏の動きや企てがあったとき、
 真っ先に自分に報告せよ』と義務づけられていたのでした。
それで22日は松本の所長に報告に行ったが、所長は出張でいませんでした。
5月25日早朝、警察が清水さんの家に行き、清水さんはすべてを話します。
そして、その日のうちに宮下さんは逮捕されてしまったのでした。

新田融さんも大逆事件で逮捕された26人のうちの1人でしたが、
爆発物取り締り罰則違反として懲役11年になりました。

宮下さんは1月24日に執行された死刑の6番目でした。

 六番目の宮下太吉は、一月十九日に「赤旗事件」で千葉監獄に入獄中の大杉栄にハガキを書いて、「いつかキリスト教の坊さんから、『一粒の麦も死んで地に落ちれば、いつか芽吹いて新しい実をつける』と聞いた」と文面にある。
 第七回公判で宮下は、「自分は今日限り、社会主義・無政府主義をやめる」と、転向を宣言している。しかし、絞首台で縄をかけられたとき、やおら大声を発した。
「無政府党万歳」
 このとき死刑執行係の看守が、とっさに床を落とすハンドルを引いたので、教誨師の沼波には、「無政府党万」までしか聞こえなかった。絶命は午後零時十六分で、享年三十五。
(佐木隆三「小説 大逆事件」より抜粋)

宮下さんは『愛と嘘っぱち』でも重要なキーパーソンです。