俺は徐々にマイケルに無関心になっていく自分を感じていた。俺はBボーイになっていったのである。いろいろな意味で「黒さ」を払拭していくマイケルと逆行するように若い俺の耳は「黒さ」を欲していた。若い俺が求めた黒さは「重さ」であり「強さ」であり「固さ」であり、「反骨精神」であった。そしてその頃のマイケルにそれらを感じることはできなかった。俺の中でマイケルは「過ぎ去ったもの」になっていった。Bボーイたらんとしていた俺はマイケルよりもJ.B.に惹かれたし、KID'N PLAYよりもPUBLIC ENEMYに惹かれた。そうであるべきだと思っていた。



俺がヒップホップミュージックに惹かれた理由の一つにその「コミュニティ性」がある。人と人との繋がりの中から産まれたもの。そのブロックの日常、その街の悩み、その国の問題。極めて個人的な主義主張はコミュニティに対するコミットメントとなり、外界のリスナーへのファンキーなニュース速報となる。まるでインターネットのようなこの音楽は群れから離れた「孤高」を嫌い、代わりに「群れの中での自分の立ち位置」を明白にすることを美徳とした。そこには人間味があったし、理想に逃げず現実と戦う強さもあった。俺は強くなりたかった。人間から逃げたくなかったのだ。



俺から見たマイケルは人から逃げていた。おっきな家で囲いを作って外界を遠ざけ、自分の世界に引きこもっているように見えた。それは俺の憧れる「男」の姿ではなかった。だがそれでもよかった。マイケルはマイケルだし、俺は憧れとして彼を見たことはなかったからだ。彼が天才なのは言うまでもない。天才だからこそ奇人であり変人なのであろうからそこに文句をつけるつもりもない。ヒップホップではなくKING OF POPである彼は孤高でいてよいのだ。ただ俺の中である時期からマイケルはポップスターからトリックスターへとその位置づけを変えた。



「DANGEROUS」の後からだね。そう。奇行である。俺はキョドってる人種に弱い。好きって意味じゃなく、好きじゃないのである。ひとつ先になにするかわからない人種が嫌いなのだ。ハラハラしたくない。俺はR.KELLYが好きだ。彼も天才であり奇人を地でいくアーティストである。しかし少なくともキョドってない。俺は最悪キョドってなければなんでもいいのだ。シャブやろーがシンナーやろーが基本ひとの勝手。天才は好きに生きたらいい。道徳は時に後からついてくるだろ。俺はそんなのはいーの。ただねー。キョドられるとねー。引いちゃうんですボク。これは俺の個人的な趣味の問題ね。ディスじゃないから。



そして...そのままの印象で彼は逝ってしまった。まさに突然、寝耳に水。寝て起きたらKING OF POPは帰らぬ人となっていた。つぎはぎだらけの顔をした50歳のポップスター。俺は泣けなかった。今でも涙は出てこない。それは彼が自分の赤ん坊を窓の外に放り出したり、幼児をこよなく愛したり、どんどん顔が変わったりすることと無関係じゃない。だが一番の理由は彼がキョドってたからだ。重ねて言うが天才なんて人種はおかしなひとでいいんだ。でもファンとしてキョドって欲しくなかった。しっかりとした口ぶりで発言してほしかった。有無を言わせぬキレで踊ってほしかった。俺が望んだのはそれだけだ。



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ラスト一回!続くんです。