世間はテロのことばかり話してた先日、ひっそりと一人の男が誕生日を迎えていた。前回のblogにも名前が出てきた俺の親父、務である。姉貴が産まれた時親父は30で、俺が産まれた時には35。だからこないだで68?おお、年取ったな親父!親父は俺とすごく似ている。顔とか見た目もそうだけど行動も似ている。どっしり見えて小心なとこもクリソツ!お調子モンなとこも変にナイーブなとこも似てるなあ。酒の酔い方とか大勢人がいる場所での立ち振る舞いとか...上げていくとキリがねーな。つーか年々似ていく気が。
男親に取って息子という存在がどれほど特別かってことが想像出来るくらいの年に俺もなった。だから今ならわかることも沢山あるんだな、俺は迷惑ばっかかけてたからさ。でも親父は口下手だし基本放任主義だから俺に言わなかった台詞が沢山あるんだと思う。でもね、背中が語るわけよ。男の哀しみってやつがブワッと匂うんだよ。だから俺は成人する前に家を出たのかも知れない。親父の背中を視界に入れたくなかったんだな。親父は男だからさ。女じゃねーからお袋や姉貴みたいにいかねーじゃん。意識すんだよな、お互い。
そもそも俺の両親は登山サークルで知り合っててさ、姉貴や俺が生まれたらやはり山に連れてくわけだ。春休み、夏休み、冬休みと休みの旅にどっかしらの山に登りに行くのが芦田家の常だったんだ。だから俺は三歳とかで日本で三番目くらいに高い山を制覇してるんだぜ。俺が水泳やマラソンや長時間のライブに強かったのは完全に山登りが影響してるはずなんだ。心肺機能を知らず知らずに高めていたんだねー。でも俺にも思春期がやって来る。中二の夏休みに初めて俺は家族の登山旅行を拒否ったんだ。それから今まで一度も一緒に登りに行っていない...。それが当時の俺と親父の断絶に一役買ったのは言うまでもない。
俺が小学校高学年の辺りから世間はいわゆる「バブル」と呼ばれる時代になり、それは6~7年くらいは続いたはず。親父は仕事ができる男だったからいつでも真夜中にならないと帰ってこなかったし、酔ってグダグダで帰ってくることも少なくなかった。今思えばめんどくさい接待とか沢山あったんだろうな...建設業だったから黒い誘惑も多かったはずだね、なんてったってバブルだからさ。でも親父は仕事を家庭に一切持ち込まなかった。まぁ図面書いてたりはしたけど仕事のストレスで悪酔いすることなんてめったになかったな。夫婦喧嘩も記憶の中では一回とかしか見たことがない。
でもその親父なりの放任主義が実を結んだかはわからなかった。中学を出ると俺はどんどん十代のレールを外れて行ったからだ。中学を出て私服で通う専門学校に入った俺は一学期で早くもギブアップ。つまらなかったのよ。そして「退学したい」と言うと親父は家族全員を集めて大層な様子で会議を開いたんだ。もっとも親父以外は「いいんじゃん?」てな調子で会議はものの十分経たずに終わった。今思えば親父は狼狽してたんだろうな。バブルによる放任主義に対する責任を感じてたのかも知れない。この頃の父親たちはみんな仕事と家庭の両立にアタマを悩ませていたはずだ。
そしてその後バイトもせずにフラフラしていた俺を見かねて親父が取った行動は普通じゃなかった。ぶん殴るでもなく勘当するわけでもなく、彼はなんと自費で自伝を作ったのだ。もちろん自分の手で書いたものである。それは親父が幼少の頃から始まり、学生時代を経て社会人となり、上京してお袋に出会って所帯を持って...という壮大なスケールの作品だった。生まれ育った香川から大阪へ、そしてその後東京へ出て仕事に身を投じていく一人の若者の苦悩がそこには刻まれていたし、胸が詰まるような恋愛もしっかり記してあった。親父は自分という血の繋がった人間の人生サンプルを提示して、そこから息子に何かを感じ取って欲しいと願って行動したわけだ。
なんて遠回し!なんて口下手!でも...俺に似てるわ。おれもそーいうとこあるわ。言わせんな、みたいなさ。変に器用だし変に不器用。つーか文章が好きなのも書けるのも親父ゆずりだなー、今思えば。でも当時の俺にはこの感動的な自伝も届かなかった。思春期のパワーは凄まじい...いや、違うか。俺は親父と向かい合うのがやっぱりまだ怖かったんだな。親父の渾身の一撃を俺はスルーしたんだ。最悪だな。ちゃんと手に取って読んでみたのはしばらく経ってからなんだ。ごめん親父。だってさ、親父と向かい合ったら俺は俺を完全に嫌いになっちまうよ。自分が間違ってるダメな人間だって認めなくちゃならないんだから。それは辛い作業だって!
多くの若者がそうであるように若い俺も「自分を愛する術」を探していた。自分を好きでいられる瞬間。それをヒップホップに託してなんとか生きていた。俺は間違ってない、と自分に言い聞かせながらツレたちと騒いで心配や憂鬱を紛らわせた。親父は少し寂しそうだったが俺はやはり見えてないふりをした。俺は親父の息子だからやっぱ口下手だったんだ。自分だけの何かを探してたんだな。人に与えられた何かが嫌だった、っつーか悔しかったんだと思う。それが例え親でもさ。俺はとことん意地っ張りなんだ、育ててくれた人間に似て。
でも過程にこだわりつつ、結果次第では何も言わないのも俺の親父のスタイルだった。だから音楽やってるなんて家族の前で一言も言わなかった俺だけど、ソロデビューのツアーの東京公演には呼んでもないのに夫婦揃ってチケット買って会場にいたりした。要は生活出来てりゃいいんだ、親父の考え方は。金にならねんなら意味がないってタイプ。モロ現実的!夢を持った人間ほど現実と戦うことになることも親父はわかってたはずだ。だから俺が夢を叶えたのは意外だったろうし、やっぱ正直嬉しかったんだと思う。俺はその日暮らしが長かったからねー。
そんなその日暮らしの頃、ある日曜日にたまたま実家に帰るとお袋が「あんた務さん(親父)テレビ見てるけどそっとしといてね」と言う。どしたの?と問うと「震災がね、辛いのよ」と。そう、言わずと知れた阪神大震災である。俺は親父の兄貴の登叔父さんが瀬戸大橋が出来るまで四国~淡路~大阪間の連絡船の船長だったことを思い出した。言ってみれば淡路島なんてバリバリ四国の隣。香川育ちの親父たちに取っては地元同然なのだ。俺はかける言葉を考えながらテレビを見てる親父のところへ挨拶しに行った。
親父はなんと、泣いていた。震災のテレビ中継を見つめて滝のように涙を流していた。俺はその時までお袋はともかく親父が泣いてるところなんて見たことがなかった。「親父、どうしたの?」とやっとの思いで聞くと親父は「大介...わしは、わしは、地元がこんな大変な時に手助けもしてやれんのじゃ...。」と答えた。親父は自分を責めていたのだ。生活のために仕事しなくちゃ家族が食っていけない。だがそのために地元の仲間が大変な時にボランティアにさえ行けない。そんな自分を不甲斐ないと言って泣いていた。静かに、だが長いことそうしていた。
俺は胸を打たれた。俺の知ってる親父は何事にも冷めてみせるタイプで、皮肉混じりに世間をせせら笑うようなキャラだった。その表の顔に隠された裏の「熱さ」を俺はこの時まで全く知らなかった。広い広い親父の背中が小さくなっていた。その悲しみが我が家の居間を包んでいた。俺にかける言葉はなかった。俺と親父では背負ってるものが違い過ぎた。傷を負った男ってのはこんなにも優しいものなのか。俺は親父を初めて一人の男として意識するようになった。そう考えることが出来るほど俺も少年ではなくなっていた。親父は結局その後二週間ほど復興ボランティアに行った。
俺はその時からハッキリと親父を尊敬している。お袋にも姉貴にも理解出来ないレベルで男として魂が繋がってしまったんだ。親父は戦う男だ。自分を犠牲にして何かができる男。悲しみを知っている男。家族のために何かを諦めている男。かっけーよ親父。なんて俺はちいせーんだろう。あんたたちがそんな思いで稼いだ金を食いつぶして好き勝手やってる。親父、俺は本当はあんたみたいになりたいんだよ...でっけー男にさ。人の悲しみをわかってやれる優しい男になりたい。大人としての義務を果たした上で人のために泣いてやれる男にさ。
俺は親父と向かい合うようになっていった。その頃から俺はひとに金を借りるのをやめ始めた。完璧にではなくとも心を入れ替え始めた。親父は常々こう言っていた。「大介、お前ももう二十歳の成人じゃ。昔の日本は15歳でもう元服と言って成人扱いされとったが今は二十歳。でもな大介、わしは今時それすら早いと思っとる。今の若もんに二十歳で大人になれと言ってもそら無理じゃ。誘惑が多いしみんな子供でいたいんじゃろ。でも三十で大人じゃさすがに遅い。だからお前は25までに食えるようになれ。25までは金も貸してやるし腹が減ったら食わせてやる。ただ25過ぎたらなんもしてやらん。夢追っかけて死ぬなら死ね。」
俺は二十歳を過ぎたところだったので震え上がり、五年先の未来を見据えて逆算で生きるようになった。もちろん食えてなかったが25には食えてるように目標を設定した。食えない時は親父を呼び出して居酒屋で飲み食いさせてもらうこともよくあった。親父と息子で飲む酒は照れくさく、どこか居心地悪く、しかし格別の美味さだった。少年のような一人の男同士になって酒を酌み交わすのはなんとも不思議な感覚で、俺は酔いにまかせて沢山の言葉を投げかけた。それに対して親父は言葉を選びながらゆっくりと答えた。時事ネタから下ネタまでお袋や姉貴の前では話せない話題を肴に飲む酒の会は月に一度の割合で続いた。
そして俺は24でインディーデビュー、25でメジャーデビューを飾る。メジャーデビューの契約金で借金をきれいに返して、それと同時にバイトせずに食っていけるようになった。俺は胸を撫で下ろした。ああ、なんとか間に合った...よかったー!俺はまず自分自身を褒め、そして次に親父に感謝した。親父の一言がなかったら俺は三十になってもフラフラしてたかも知れないし、ずっと子供でいたかも知れない。俺はとことん自分に甘いのでそうなっていた可能性はでかい...。サスガヤン親父、言い方知ってるやん!俺は自分のガキにもそう言ってやろうと思ってるよ。夢なんか25で諦めちまえ、ってな。
...とまぁDABOの親父はこんな感じなんだ。やってる仕事は違えど中身はだいぶ似てる。外身も結構似てる。でもまだまだ足りないとこばっかだ。俺はまだまだあいつには勝てねー。相手になんねーよ。喧嘩しても心で負ける。わかってんだ。だから背中を見てる。いつか親父みたいな親父になるために、その広い背中を見てる。誰かのために戦い、傷つくことを恐れず、ボロボロになった分優しくなっていく「男」という生き物を親父の背中を見て学んでいる。口下手なのも変わりモンなのも一緒。あんたからの贈り物だから大事に抱いて生きてくだけよ。
外でピリッとスーツ着てる親父も家で寝っ転がって屁こいてる親父も今や愛おしいとさえ思える自分がいる。俺も33のいい大人になっちまったからなー。それどころか二年しないうちに俺が産まれた時の親父の年になっちまうよ。だから親父が俺に教えた「先を読んで目標を持って生きる」ということを忘れちゃいけねーやな。40になった時にどうなっていたいか。そんなことを考えながら今という瞬間を積み上げていく。俺に降り掛かる「経験」という名の喜びや悲しみ、それは全部あんたたちからもらったもんだ。産まれたから生きてる。生きてなきゃ死んでる。生きてるから抗う。それだけだべ親父。
男親に取って息子という存在がどれほど特別かってことが想像出来るくらいの年に俺もなった。だから今ならわかることも沢山あるんだな、俺は迷惑ばっかかけてたからさ。でも親父は口下手だし基本放任主義だから俺に言わなかった台詞が沢山あるんだと思う。でもね、背中が語るわけよ。男の哀しみってやつがブワッと匂うんだよ。だから俺は成人する前に家を出たのかも知れない。親父の背中を視界に入れたくなかったんだな。親父は男だからさ。女じゃねーからお袋や姉貴みたいにいかねーじゃん。意識すんだよな、お互い。
そもそも俺の両親は登山サークルで知り合っててさ、姉貴や俺が生まれたらやはり山に連れてくわけだ。春休み、夏休み、冬休みと休みの旅にどっかしらの山に登りに行くのが芦田家の常だったんだ。だから俺は三歳とかで日本で三番目くらいに高い山を制覇してるんだぜ。俺が水泳やマラソンや長時間のライブに強かったのは完全に山登りが影響してるはずなんだ。心肺機能を知らず知らずに高めていたんだねー。でも俺にも思春期がやって来る。中二の夏休みに初めて俺は家族の登山旅行を拒否ったんだ。それから今まで一度も一緒に登りに行っていない...。それが当時の俺と親父の断絶に一役買ったのは言うまでもない。
俺が小学校高学年の辺りから世間はいわゆる「バブル」と呼ばれる時代になり、それは6~7年くらいは続いたはず。親父は仕事ができる男だったからいつでも真夜中にならないと帰ってこなかったし、酔ってグダグダで帰ってくることも少なくなかった。今思えばめんどくさい接待とか沢山あったんだろうな...建設業だったから黒い誘惑も多かったはずだね、なんてったってバブルだからさ。でも親父は仕事を家庭に一切持ち込まなかった。まぁ図面書いてたりはしたけど仕事のストレスで悪酔いすることなんてめったになかったな。夫婦喧嘩も記憶の中では一回とかしか見たことがない。
でもその親父なりの放任主義が実を結んだかはわからなかった。中学を出ると俺はどんどん十代のレールを外れて行ったからだ。中学を出て私服で通う専門学校に入った俺は一学期で早くもギブアップ。つまらなかったのよ。そして「退学したい」と言うと親父は家族全員を集めて大層な様子で会議を開いたんだ。もっとも親父以外は「いいんじゃん?」てな調子で会議はものの十分経たずに終わった。今思えば親父は狼狽してたんだろうな。バブルによる放任主義に対する責任を感じてたのかも知れない。この頃の父親たちはみんな仕事と家庭の両立にアタマを悩ませていたはずだ。
そしてその後バイトもせずにフラフラしていた俺を見かねて親父が取った行動は普通じゃなかった。ぶん殴るでもなく勘当するわけでもなく、彼はなんと自費で自伝を作ったのだ。もちろん自分の手で書いたものである。それは親父が幼少の頃から始まり、学生時代を経て社会人となり、上京してお袋に出会って所帯を持って...という壮大なスケールの作品だった。生まれ育った香川から大阪へ、そしてその後東京へ出て仕事に身を投じていく一人の若者の苦悩がそこには刻まれていたし、胸が詰まるような恋愛もしっかり記してあった。親父は自分という血の繋がった人間の人生サンプルを提示して、そこから息子に何かを感じ取って欲しいと願って行動したわけだ。
なんて遠回し!なんて口下手!でも...俺に似てるわ。おれもそーいうとこあるわ。言わせんな、みたいなさ。変に器用だし変に不器用。つーか文章が好きなのも書けるのも親父ゆずりだなー、今思えば。でも当時の俺にはこの感動的な自伝も届かなかった。思春期のパワーは凄まじい...いや、違うか。俺は親父と向かい合うのがやっぱりまだ怖かったんだな。親父の渾身の一撃を俺はスルーしたんだ。最悪だな。ちゃんと手に取って読んでみたのはしばらく経ってからなんだ。ごめん親父。だってさ、親父と向かい合ったら俺は俺を完全に嫌いになっちまうよ。自分が間違ってるダメな人間だって認めなくちゃならないんだから。それは辛い作業だって!
多くの若者がそうであるように若い俺も「自分を愛する術」を探していた。自分を好きでいられる瞬間。それをヒップホップに託してなんとか生きていた。俺は間違ってない、と自分に言い聞かせながらツレたちと騒いで心配や憂鬱を紛らわせた。親父は少し寂しそうだったが俺はやはり見えてないふりをした。俺は親父の息子だからやっぱ口下手だったんだ。自分だけの何かを探してたんだな。人に与えられた何かが嫌だった、っつーか悔しかったんだと思う。それが例え親でもさ。俺はとことん意地っ張りなんだ、育ててくれた人間に似て。
でも過程にこだわりつつ、結果次第では何も言わないのも俺の親父のスタイルだった。だから音楽やってるなんて家族の前で一言も言わなかった俺だけど、ソロデビューのツアーの東京公演には呼んでもないのに夫婦揃ってチケット買って会場にいたりした。要は生活出来てりゃいいんだ、親父の考え方は。金にならねんなら意味がないってタイプ。モロ現実的!夢を持った人間ほど現実と戦うことになることも親父はわかってたはずだ。だから俺が夢を叶えたのは意外だったろうし、やっぱ正直嬉しかったんだと思う。俺はその日暮らしが長かったからねー。
そんなその日暮らしの頃、ある日曜日にたまたま実家に帰るとお袋が「あんた務さん(親父)テレビ見てるけどそっとしといてね」と言う。どしたの?と問うと「震災がね、辛いのよ」と。そう、言わずと知れた阪神大震災である。俺は親父の兄貴の登叔父さんが瀬戸大橋が出来るまで四国~淡路~大阪間の連絡船の船長だったことを思い出した。言ってみれば淡路島なんてバリバリ四国の隣。香川育ちの親父たちに取っては地元同然なのだ。俺はかける言葉を考えながらテレビを見てる親父のところへ挨拶しに行った。
親父はなんと、泣いていた。震災のテレビ中継を見つめて滝のように涙を流していた。俺はその時までお袋はともかく親父が泣いてるところなんて見たことがなかった。「親父、どうしたの?」とやっとの思いで聞くと親父は「大介...わしは、わしは、地元がこんな大変な時に手助けもしてやれんのじゃ...。」と答えた。親父は自分を責めていたのだ。生活のために仕事しなくちゃ家族が食っていけない。だがそのために地元の仲間が大変な時にボランティアにさえ行けない。そんな自分を不甲斐ないと言って泣いていた。静かに、だが長いことそうしていた。
俺は胸を打たれた。俺の知ってる親父は何事にも冷めてみせるタイプで、皮肉混じりに世間をせせら笑うようなキャラだった。その表の顔に隠された裏の「熱さ」を俺はこの時まで全く知らなかった。広い広い親父の背中が小さくなっていた。その悲しみが我が家の居間を包んでいた。俺にかける言葉はなかった。俺と親父では背負ってるものが違い過ぎた。傷を負った男ってのはこんなにも優しいものなのか。俺は親父を初めて一人の男として意識するようになった。そう考えることが出来るほど俺も少年ではなくなっていた。親父は結局その後二週間ほど復興ボランティアに行った。
俺はその時からハッキリと親父を尊敬している。お袋にも姉貴にも理解出来ないレベルで男として魂が繋がってしまったんだ。親父は戦う男だ。自分を犠牲にして何かができる男。悲しみを知っている男。家族のために何かを諦めている男。かっけーよ親父。なんて俺はちいせーんだろう。あんたたちがそんな思いで稼いだ金を食いつぶして好き勝手やってる。親父、俺は本当はあんたみたいになりたいんだよ...でっけー男にさ。人の悲しみをわかってやれる優しい男になりたい。大人としての義務を果たした上で人のために泣いてやれる男にさ。
俺は親父と向かい合うようになっていった。その頃から俺はひとに金を借りるのをやめ始めた。完璧にではなくとも心を入れ替え始めた。親父は常々こう言っていた。「大介、お前ももう二十歳の成人じゃ。昔の日本は15歳でもう元服と言って成人扱いされとったが今は二十歳。でもな大介、わしは今時それすら早いと思っとる。今の若もんに二十歳で大人になれと言ってもそら無理じゃ。誘惑が多いしみんな子供でいたいんじゃろ。でも三十で大人じゃさすがに遅い。だからお前は25までに食えるようになれ。25までは金も貸してやるし腹が減ったら食わせてやる。ただ25過ぎたらなんもしてやらん。夢追っかけて死ぬなら死ね。」
俺は二十歳を過ぎたところだったので震え上がり、五年先の未来を見据えて逆算で生きるようになった。もちろん食えてなかったが25には食えてるように目標を設定した。食えない時は親父を呼び出して居酒屋で飲み食いさせてもらうこともよくあった。親父と息子で飲む酒は照れくさく、どこか居心地悪く、しかし格別の美味さだった。少年のような一人の男同士になって酒を酌み交わすのはなんとも不思議な感覚で、俺は酔いにまかせて沢山の言葉を投げかけた。それに対して親父は言葉を選びながらゆっくりと答えた。時事ネタから下ネタまでお袋や姉貴の前では話せない話題を肴に飲む酒の会は月に一度の割合で続いた。
そして俺は24でインディーデビュー、25でメジャーデビューを飾る。メジャーデビューの契約金で借金をきれいに返して、それと同時にバイトせずに食っていけるようになった。俺は胸を撫で下ろした。ああ、なんとか間に合った...よかったー!俺はまず自分自身を褒め、そして次に親父に感謝した。親父の一言がなかったら俺は三十になってもフラフラしてたかも知れないし、ずっと子供でいたかも知れない。俺はとことん自分に甘いのでそうなっていた可能性はでかい...。サスガヤン親父、言い方知ってるやん!俺は自分のガキにもそう言ってやろうと思ってるよ。夢なんか25で諦めちまえ、ってな。
...とまぁDABOの親父はこんな感じなんだ。やってる仕事は違えど中身はだいぶ似てる。外身も結構似てる。でもまだまだ足りないとこばっかだ。俺はまだまだあいつには勝てねー。相手になんねーよ。喧嘩しても心で負ける。わかってんだ。だから背中を見てる。いつか親父みたいな親父になるために、その広い背中を見てる。誰かのために戦い、傷つくことを恐れず、ボロボロになった分優しくなっていく「男」という生き物を親父の背中を見て学んでいる。口下手なのも変わりモンなのも一緒。あんたからの贈り物だから大事に抱いて生きてくだけよ。
外でピリッとスーツ着てる親父も家で寝っ転がって屁こいてる親父も今や愛おしいとさえ思える自分がいる。俺も33のいい大人になっちまったからなー。それどころか二年しないうちに俺が産まれた時の親父の年になっちまうよ。だから親父が俺に教えた「先を読んで目標を持って生きる」ということを忘れちゃいけねーやな。40になった時にどうなっていたいか。そんなことを考えながら今という瞬間を積み上げていく。俺に降り掛かる「経験」という名の喜びや悲しみ、それは全部あんたたちからもらったもんだ。産まれたから生きてる。生きてなきゃ死んでる。生きてるから抗う。それだけだべ親父。