いつしか一日に一話しか読めなくなり、とうとう、ああもうこれ以上は読めない、と本から目を上げて、しばらく、目を落とすと次のページは「解説」で、確かにそれは本のおわりだった。

今まで見て見ぬふりをしていた須賀敦子というひと。図書館でふいに目に入った『コルシア書店の仲間たち』というタイトルが気に入って、遂に手に取る勇気が出たのだったが、向田邦子をきっかけに女性のエッセイを読むようになったわたしには、当然の成行だったのかもしれない。

エッセイというのは氷山の一角だな、と最近考えている。なんでもかんでも言葉にしている気がして怖くなってその理由を探して行き当たったのは、沢山の、書けないことの存在だった。目の前で起きているそばから文章にしていることもあるのに、いくら思い浮かべても言葉が生まれてこない場所が、自分のなかに在るのだった。

「四年まえの秋にペッピーノと結婚したときから、日々を共有するよろこびが大きければ大きいほど、なにかそれが現実ではないように思え、自分は早晩彼を失うことになるのではないかという一見理由のない不安がずっと私のなかにわだかまりつづけていて、それが思ってもいないときにひょいとあたまをもたげることがあった」
そんな彼女は、そんな思いを形にしたくなかっただろう。野原で一時彼を見失って取り乱したことも、本当に失ってしまったことも。父親の浮気も、母親の一言一言も、「」に収められない、父親の最後の言葉の響きも。

何を書いても重たく陰気になる時期があった。その頃わたしは、もう沈みきってしまいそうな氷山と海との際の際を書いていたような気がする。公に書けるような状態ではなかった。それでも書いたのは、書くことでどうにか海から顔を出して空気を吸おうとしていたからだろう。ただ、それをささやかな言葉で描けるほど優れた人間ではないので、結果は深刻だった。


ひとつひとつの作品が真珠の一粒一粒のような、『ヴェネツィアの宿』。海のなかに隠れた部分に、彼女はじっくりと時間を掛けたのだと思った。

30才を越えて、ひとつの季節が終わった。今わたしの海のなかに在るものが、いつ言葉になるかはわからない。




『ヴェネツィアの宿』
作:須賀敦子
文藝春秋