はーい。奈央でーす。

暑い暑い夏をいかがお過ごしでしょうか?

体調を崩さないようにしてくださいね。

奈央は、主に早朝に活動しているので、今のところ元気でーす。

 

さて、前のブログで、こんなことを書きました。

今日はそのことを目で見てみたいなあ なんて思って、お盆休みを利用して来ちゃいました。

 

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武蔵と小次郎に会いに 6 佐々木小次郎

③ 福岡 添田(そえだ)説  

 佐々木小次郎 豊前添田説 特別ウェブサイトより

  添田町文化財専門委員長 梶谷 敏明のよると

 

 黒田官兵衛が、長年の功績により、秀吉の命に従って播磨から豊前に移ってきた時、豊前の豪族たちは、それに不満を持っていました。

 天正15年(1587年)、宇都宮鎮房が起こした豊前国一揆では、呼応した武将のひとり、佐々木雅樂頭種次が一族七百余人とともに、添田の岩石(がんじゃく)城に立てこもりました。

 この佐々木一族こそ、小次郎を生んだ家系であるというのが、佐々木小次郎添田出身説の根拠です

 その後、黒田氏は筑前に移り、代わりに、関が原合戦の功績により、家康の命を受けて、今度は細川家が豊前の国に移ってきます。細川家は城を九州と本州を繋ぐ交通の要衝である小倉に城を建て、小倉藩というようになります。そして、豊前の国の運営にあたります。
 もともと、佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、黒田家によって鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったため、隠然たる力を持つ佐々木一族を懐柔するための策として、細川藩は、佐々木小次郎を藩の剣術指南役に召抱えます

佐々木小次郎 豊前添田説 特別ウェブサイトよりお借りしました

 

 一方、宮本武蔵は門司の城代である家老の沼田延元に剣術指南役として召抱えられます。
 ここで、細川家は、藩の支配体制を磐石にするためには、剣術の試合にかこつけてでも、小次郎を排除する必要があったようです

 厳流島の決闘後、絶命していなかった佐々木小次郎は、隠れていた武士たちによって絶命されます。これに怒った小次郎の門弟たちが武蔵に復讐しようと追いかけます。これを沼田延元が護衛をつけてまで武蔵を保護し、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配を強化したと考えられます

 

 宮本武蔵は、後年、彼自身の著作である五輪の書の中でさえ、最後の決闘となった巌流島の決闘について多くを語らなかったという理由もわかりますね。

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豊前の国 副田(添田)の庄にやってきました。

ここは、かつて岩石城(がんじゃくじょう)があったところです。

ここが大手門かな? まずは撮影!

え? ええ?

またまた、なにやら白いものが!

以前、聖地を行くシリーズでも、こんなことがありました。

わたしレポーターなの? 聖地を行く その1

ま、気にせずに行きましょう。
典型的な山城です。
坂道を登っていくと、合鴨さんがお出迎え!
奈央が近づいていっても逃げないよね。
さて、ここがお城の入り口です。
小さいけれど、立派な城でしょう。
実はここは、添田美術館を併設してて、そちらの方はまだ開いていませんでした。
でも、お城には登れたので、最上階まで、エレベータで一気に上がりました。
ちなみに途中の階は倉庫で降りれませんでした。
天守閣の最上階には、こんな鳥瞰図がありました。
でも、佐々木小次郎のことは何も書いてありませんでした。
最上階のベランダから、城下を望みます。
ほらね、鳥瞰図の通りでしょ。
ここが、かつて佐々木一族が黒田氏や細川氏に不満を抱きつつ居城を構えていた場所なのね。
ベランダをぐるりと回ってみました。
下に見えるのが、先ほど撮影した門ですね。
目を上に転じると、そこには岩石山がありました。
まさしく山城ですね。
城を降りてくると、そこには綺麗な池がありました。
池の端には東屋がありました。
昔、殿様がここで釣りなんかをして楽しんだのかしら
とにかく暑い日でした。
早朝といっても、8時くらいになると、30℃を超えていました。
今回、残念ながら、美術館に入れなかったので、小次郎に関する詳しい情報を得られませんでしたが、確かに佐々木一族の居城であることをわかりました。
ここで生まれて、育って、民を養いつつ、戦国を生き抜いたのでしょうね。
佐々木小次郎って、どんな人だったのでしょうね。
 
それじゃ、またね。