結婚、離婚の話題が尽きない芸能界。かつてはそれを揶揄するのは週刊誌やテレビの仕事であったが、昨今はネットが生々しくてリアルだ。


リアルというのはもちろん真実という意味ではない。
フィルターのかかっていない意見の表出が簡単に出来るネット世界ゆえに、もはや出版社やテレビ局が介在した表出はどうでもいいものになりさがる。


これはゴシップ報道に限ったことではなく、全体を覆っている。
旧来のマスメディアは既に成り立たなくなり、かといってネット社会が豊かな言論の場として機能しているかと言えばまだまだ途上段階だ。


メディア乱立状態だが、過渡期としては仕方がない。
そしてこの状態がどちらかに傾くまでにはもう少しの時間が必要となる。
それは世代間共有が細分化されたことで、これから今しばらく今までのテレビでも新聞でも雑誌でも、規模は小さくなれどやってはいける現状があるからだ。


しかしこの先を考えて手を打たないと、確実にかつての力を持ったマスメディアは崩壊しよう。

ネット社会も同じことで、その世界を牽引する者たちが、日本のおかれている現状に対する深い洞察と理解がなければ薄っぺらな言いたい放題の自由に歯止めはかからない。


社会的発言にはリテラシーが要求するされるが、民度レベルの問題とも重なり、ネット社会において豊かな土壌を形成することが日本ではまだまだ難しいように感じる。


一見強度のある表出に依存しているようで、意味の薄っぺらな表現が背後にあると、表出の偶像が崩れたときにそのものの実存までも奈落の底に落ちる。


その傷は深く、険しい。


現代が抱える病、鬱もまた複雑で多用だ。
まだまだ未成熟な精神医学が抱えられる部分は意外と少ない。


脳というドグマが全て解明されなければ、鬱もまた解けない。
近代人にとって大きな課題だ。


時は2009年1月1日



久しぶりに大晦日を家族と向かえた。

それは友人の環境の変化によるところが大きいが、その一事に限らず、昨年2008年は自分にとってとてつもなく重要な年になった。



2008年、6月8日、秋葉原での事件が全てを変えたと言っても過言ではない。



あの事件が提示した問題、そして課題は私自身の思考にも間接的ではあるが、大きな作用をもたらした。

私がロストジェネレーションと呼ばれる世代に属していることも恥ずかしながらこれを機会に知った。



現代社会がどうのような構造で、日本は、世界は、どのように関わっているのかという一見自明のようでまったく複雑系の中に覆い隠されているということを、この事件をきっかけに知ることになったのだ。



文学、哲学、民俗学、歴史、それらを自分の嗜好の中で消費していた私は大きな時代錯誤の中にいたのかもしれない。

今、自分が生きている世界、社会に自明性がなかったから虚無を払拭できないでいたにも関わらず、半ばあきらめ気味に、自分の殻に閉じこもろうとしていた。

それはそれで、違う道を歩んだかもしれないが、決して満足のいく結果は得られなかったに違いない。自己嫌悪の嵐が襲ったことだろう。



あの事件は、その思考に“まった”をかけたことは事実だ。



そして社会学に出会い、虚無は解けた。



なぜここに至らなかったのか、それは詮索しても意味がない。



それから半年、その間の読書量は過去最高だ。

偉そうなことを言う割に読書量は少なかったが、この半年は充実した質と量の読書ができたように感じる。



点が線になった。



そしてこの世界にはとてつもなく大きな課題が山積していることを、別の視点で認識した。



資本主義、社会、経済、金融、精神分析、これらのキーワードが現代を解く鍵となろう。



つまり、文学、哲学、歴史などは直接的には大した意味をなさない。

これには語弊があるかもしれない。

要は、それだけではダメだ、ということだ。

それだけを唱えるものはロマンチシズムに浸っているだけで、社会的に有害にすらなりつつある。



複雑系の諸分野の関係性が認識されて初めて脱構築が可能となる。



これはとてつもなく難しい。



悲観的には、行きつくところまで行かないと社会は変化しない、というものだが、そう思う人が増えることによって、それは変化する。

であるので私自信がそこまで悲観的ではない。悲観的になろうとももう“虚無”はやってこない。虚無は社会の構造が、点が線にならずに解けなかったからだ。



もはや私の実存の問題は虚無ではなく、具体性を帯びた。



それを実際の行動に移す、そんな段階だ。

2009年は少しでも前に進めばよいと思う。

複雑系の中では、それでもやり続けることが意味を持ってくる。



結果的に何もならないかもしれない。



こう書くと、勘違いの偽善者と思われるかもしれない。

ここで間違ってはいけないことは、私自身は楽しいと思うことを一義に考えているということだ。誰かのため、という思いはそれすらも複雑系の中で偽善の烙印を押される。

これも偽善と呼ばれたくない、ということではなく、そういった次元で行動しないということである。その思考に自信が持てるだけの“屁理屈”が実存に結びつくとそれが可能になるのだ。



さて、新年早々長々となったが、地道に楽しく生きてやる!ということです。


創作、

やはり私の表現はここにあると思う。

作品を、今年こそ、満足のいく作品を創りたい。




今年もあと残すところ数日となった。

世情はいよいよ険しく、不透明性は増大していっている。

問題の本質は既に解っていながら、解体、脱構築できない惰性が支配している。


なるようにしかならない、という楽観主義はいささか問題だ。

実害が及ぶかどうかの問題ではなく、実存問題、動機付けの希薄さがもたらす“世界”が面白いのか、つまらないのか、という問題が実は究極的だと思う。


成熟社会は消費の“強度”の問題でもある。

ほとんどの文化が再帰的にしか享受できない“世界”において、つまらない世の中になってしまうのは“マズイ”ことだ。

それこそ“ナウシカ”的な人間の存在の排除へと向かう。


いや、いいのだけどもね、人間が絶滅しようと。

特に無機質な虚宇宙が漫然と機動しているだけだから・・・


しかしそれは人間がいなくなった世界。


いる間は少なくとも実存の糧を模索する。


だから“マズイ”世界になるのは困るのだ。


ナショナリズム、レイシズムに向かわずに、この惰性を一掃する処方箋はないのだろうか・・・

あれば苦労しないね。


スローフード、

日本にはなじめない、理解できない運動なんだろうな・・・

世代間共有の細分化、それを可能にした資本主義の消費段階。


薄っぺらな共有を当てにできない社会で、これからの高齢者は実存を確保できるのか。


暗闇の嵐はこれから吹き荒れる。

現代社会の行く末、

明るいのか、暗いのか、

いいや、二択ではないのだよ。


そう、白黒はっきりはスッキリする。

でもスッキリするのは表面だけ、

あなたもわたしも、不透明な憂鬱が無意識下に沈殿する。


社会は生き物だ。

相対性の中で絶えず蠢いている。


資本主義社会の止まらぬ成長はより世界を複雑化し、不透明さを拡大する。

見通せない、

不安の底が見えない。

見ようと思っても猛スピードで穴を掘り続けるからだ。

底はどんどん深くなっていく。


アカルイミライ

それは忘却の中でうっすらと感じる幻かもしれない。

豊かな消費の側面に、微笑する悪魔がいる。


奈落の底を見つけ出すには別ルートを認識するしかない。
正攻法では見つからないのだ。

その別ルートが、
とてもやっかいなのだ・・・



男と女、生物学的にはこの2つしか性がないことになっている。
しかし染色体異常や環境によって第3の性が承認される世の中となった。
つまり、科学の進歩が性同一性障害を証明したということだ。
一昔前までは異常と思われていたことが、アカデミズムの承認によって180度変わるのだ。
しかしそれを自分自身の中で消化できるかは別問題だ。

だから争いが起こる。

ささいな喧嘩も同じ原理で、何をもってその人たるかが、時代によって、社会によって異なってしまうのだ。

そう考えると二つの性についても社会によってその様相は大きく変える。
単に性器の違いだけではなく、社会的役割の変遷と自意識、世代間共有の認識によって恐ろしく多様性を見せているのが現代社会なのである。
その複雑系は現代日本の教育システムでは多くのものが認識できない。

少数の分かり合える奴と小さなコミュニティを築いて満足する。
正確には満足ではなくて、安心を得るだけなのだが・・・
人は他者から、もしくは社会的に承認を得ないと心が落ち着かない存在だ。
宗教的大きな世界観がない日本にとって、共通目的を失ったポストモダン時代がもたらす影響は、島宇宙化による帰属の転化による不安の解消となる。

昨今のSNSもその一端を握る。
SNSの当初の動きはかなり自由度があったが、多くの人が参加するにしたがってその効用は反比例し、身近な集まりという閉塞空間を作り出してしまう。
それは一民族日本たる現象である。

本来求められるコミュニケーションが機能しない。
しかし企業はアクセス数の名の下に誇大な宣伝費を儲けることができる。
中身が伴わない経済社会。
それを空洞化世界という。

先の日記に登場した涼宮ハルヒの世界では閉鎖空間とう概念が出てくるが、まさしく日本的だ。

現代小説を読む気がしない。それはことに純文学が純文学足りえない時代となった証だ。
それを嘆いて復古主義になるつもりはなく、むしろライトノベルでもなんでもしっかり評価したらいいだけのことで、アカデミズムの役割が終わったことを認めない既得権益者が、日本の表層を建前で覆い隠している。

虚無はそういった中で生まれる。

若い者はその虚無の深遠に迫ることが今の教育環境では難しい。
だから脱学校化する。
しかし親が自分の過去と等価に現代を認識していると、軋轢が生じる。
かくして子供は脱社会化する。
そして何かのきっかけでとんでもないことをしでかす。

現代の理解不能と言われる犯罪の深遠は簡単に言うとそんなところだ。

これはマジメに怖いことである。
通り魔的犯罪がいつでも起こりうる可能性が確実に増えていることを意味する。
前までは精神異常者扱いし、そのあとは性格異常という人格障害とした。
しかしそうでもない人が無差別殺人を起こすようになった。
もはや旧社会的権益の構図はマイナス要因にしか働かないことを、オヤジたちは痛感するべきだ。

男社会が規定してきた規範を変えることは、男にとって死活問題にもなる。
しかし、冷戦崩壊後の混沌を事なかれ主義で済ませた時代は去った。

男が情けなくなり、ストーカー的粘着が増大し、勝手な自意識を振舞える時代は終わっている。

女は柔軟だ。

不倫は一つの自己防衛手段でもあるが、自意識が大切だ。
同調主義的に、他の人が結構やっているから、というだけで冒険するにはリスクが多すぎる。
認められるのは自分が自分であることに必要だという意思があるかどうかだ。

日本の男は辛い選択を迫られているが、必然である。

男社会の特権を捨てることを拒絶する人の割合が減るころに、社会は大きく変わるはずだ。


女も男も新時代の幕開けを自意識の中に刻まれれば問題ない。

難しいかもしれないが、急速に進むコンピュテーションの社会は、恐らくその世界観を否応なく提示するだろう。


男よ、素直になれ、おまえは決して強くない。
社会に強さを与えられていただけだ。
マッチョイズムは終わる。あのアメリカでさえチェンジを余儀なくされた。

これからは女の時代だ。

しかし女は女でかつての男社会の代替機能を目指すのではいけない。
フェミニズムの達成はそんなことではない。

女も自意識に目覚める必要がある。

若い世代は既に当然のごとく感じている感覚を、どの程度理解できるかが鍵だ。


目まぐるしい速さで世代間の認識の格差が広がっている。

日本の未来は今後どうなるのか・・・