動機とは、何か行動を起こすときにその理由となるもの、意味である。

その動機は、自然と起こるもの、というイメージだが、ではその自然と起こるにはどういった因子が作用するのだろうか。

犯罪報道に良く見られる、動機の解明、

それは何がその容疑者に作用し、その犯罪に至らしめたかを説明するために、便利な因子であるために叫ばれる。


人の行動には何かしら説明がつく。
そう思われている。
そう、精神医学、それに関わる諸科学の発達によって、動機の多くが解明したことは事実であろう。

動機の背景にあるもの、
その多くは社会性であろうかと思う。

社会性とは、つまり、我々がリアルタイムで暮らしている現代社会ということだ。

現代社会が営まれている背景は何か、

それはもちろん、文化であり、それを形成するに至った経緯、つまり、歴史だ。

歴史は義務教育で、学校で学ぶことになっている。
新しい歴史教科書問題で、その歴史教育に対する在り方が疑問視されたことの功績は少なからずあるかと思う。(その中身が問題だが)


さて、しかしその教育とやらで学んでいる実態はどんなことか。
それは公立、私立で大きく違ってくるとともに、地域によっても大きく異なる。

歴史は、文献だけで判断する教育などは到底できない。
だから学者という身分の者が、翻訳し、提示するのだ。
その時点で偏り、つまりバイアスが生じていることに、まず気づかなければならない。
そしてそれは仕方のないことであり、そのことをまず、学ぶべき対象に理解させることが必要なのである。
教育で得られるもの、そして弊害、それを被教育者が理解することができなければ、受け売りが増えるだけである。

「今から教えることは一つの視点であり、解釈に過ぎない。だから疑問に思うことがあればそれを解決するために教師に聞くか、自ら調べることをすべきである」と、教師は言わなければならない。
それが真の教育であると思う。

一定の社会調和が成されていた時代であれば、暗記で事足りる。
しかしそれ(冷戦)が崩れた。
永きに渡った大きな構造が変化を余儀なくされた。
新しいイデオロギー、
そんなものは出なかった。
何故か。
支配、とう権力構造を支えていた市民が、明らかに違う性質を持ったからだ。

その因子の一つがテクノロジーの進化だ。
資本という魔物を限りない欲望の道具として駆使し、地球全体を巻き込んで世界を複雑怪奇なものに仕立て上げた。


これを解けるものは僅かな人々であろう。
そうしてそこに利権が、保身が、個人が成しうる最大級の欲求の達成が、巧みに繰り広げられる。
その世界が、広瀬隆氏の説いた「赤い楯」であろう。

つまりは、
虚無的な美談もまた、金融大閨閥を発端とした世界帝国の中に取り込まれたものであり、ただのナルシシズムに過ぎないのである。
それは文学の否定、死亡ととっていただいても構わない。


動機とは、実はそんな大きな背景の中で起こっているものであるが、それを自覚できるものは少ない。
ということは、その段階をレイヤー(階層)にして表示してみると分かりやすいが、どの段階で自分自身の思考回路が停止してるかを発見することが重要である。


それは無論、その先を分かってからでなくては判断できぬものであるが。

まあ、それは置いておいて、そのことが示すことは何かと言うと、
自分が知らないことを知ること、または、判断できるかどうかという能力である。

過信、という言葉があるが、まさにこれである。
人は絶えず学ぶ存在であり、終わりはない。
それを知らずに全知を得たかのように振舞うものがいる。


あさはか、である。


知らないことを前提に、語る。

しかし、知らないということを知っていることで、人は新たな知を得るのである。


現代社会において動機は多様を極める。
多様を極める社会であるから当然である。
人の行動にはかならず動機があるが、
その動機が複雑怪奇な多様的社会性にあるとしたら、それは本人が理解し得ずに行っている行動ということにある。

そこに精神分析が、現代社会の、文化の、意味を包含し、司法の場で妥当な判断を下せるのかどうかは疑問だ。

DNAの螺旋構造のように諸要素が絡み合った現代。
ロストアイデンティティが叫ばれる日本。

人々の根底にある“確かなもの”は、意外と脆く、崩れやすいものなのだ。


動機は、薄くて脆い、それが日本社会の実態だ。
社会学者、宮台氏はその動機の薄さを理解し、問題を引き起こす引き金は社会にいくらでも存在し、それがゆえに個々のものを排除することは望ましく
ないとし、火薬を抜く社会を作り出すことが重要であると述べている。
彼は、そのためには後続の被教育者が、どのような教育を施されるかが重要であり、緩やかに変化していく社会を望んでいると思われる。

私もそこ同意している。

教育が薄い動機の隙間を埋めるものにならなければならない。

そう思うのである。